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門司から黒崎まで電車が通ったとき

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<3b-41-4> 明治の終り頃 門司を起点に黒崎まで電車の軌道工事が始まったが (*1)  亡母はどうしてそんなものが要るだろう  何処のどなたが乗るのだろうと思ったそうだ 一里の道なんかへっちゃらだった時代 電車が通うようになったら一番に乗ったのは自分だったと笑っていた (*1)九州電気軌道:現在の西日本鉄道(西鉄)の直接の前身にあたる   1911年(明治44年)6月5日 東本町2丁目(門司市) - 大蔵川(のちの大蔵、八幡市)間(18.1Km)開業。   1911年(明治44年)7月15日 大蔵川 - 黒崎駅前(八幡市)間開業。 (Wikipediaより一部抜粋) 《凡人の雑感》 北九州の路面電車は残念ながら2000年にはすべて廃止されました。 子供の頃は電車の運転手さんはあこがれの職業。 電車に乗ると運転席のすぐ後ろに行こうと必死でした。 戸畑の三六から小倉の大門までは専用軌道のため、スピードを上げます。 このとき電車は前後逆方向に、左右に大きく振れながら走り、 電車が線路から飛び出すのではないかと思えるほどのスリルを感じていました。 こんな走行中にも吊皮を持たずに仁王立ちで立って自慢そうにしている大人もいました。私も大きくなって真似をした事がありますが~ ブレーキをかけられると前に走っていったり、よその人にぶつかって謝ったり…😅 九州電気軌道は略して『九軌』と言ってたそうです。 後に亡母も勤務したようです。 下のような絵葉書も保存していました。 「開業一周年記念(明治四十五年六月)」の絵葉書で『砂津車庫』となっています。 亡母の母もこのような電車に乗ったのでしょうね

戦時中、特志看護婦として志願した姉

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<3B-40-4> 戦時中 特志看護婦として志願した姉の話 体温計は一人一人計るものと思っていたら ベッドに備え付けの体温計で 号令一下 始めェ 終りッ と一室何十人の傷病兵がやるので驚いた由 又 休日にはお琴の合奏でも 陸軍病院に琴を持参したのは大ぜいの赤十字、特志看護婦中姉一人だったそうな 西部戦線異状なしのテレビを見て 《凡人の雑感》 亡母より13才上の私の伯母さんのことのようです。 2014年11月4日(2a-70-1)の投稿にあるように亡母の父母(辰次郎と辰)は三味線をひき、踊り、地唄が好き、歌舞伎や人形浄瑠璃 ctc. 知的で教養もあったと亡母は言ってます。 辰は子供たちにも芸や教養を身につけ、知的であるよう育てたようです。 だから八幡生れ八幡育ちの亡母でも気にしていました。 それが何の因果か八幡くんだりまで来てしまって… (理由は八幡製鉄所に勤めるようになったからです) しかし八幡でも大阪弁で通したようですね。 亡母の姉たちは知人から 「あんな猿と一緒に暮らすような八幡に行くなんて可哀相」と同情され、京都の画家が一時引取っていたと聞いています。 そんなこんなで家系には誇りを持ちプライドも高かったのではと想像します。 それで陸軍病院に勤務する様になった時にもお琴を持って行ったのでしょうね。 それにしても戦時中の陸軍病院の入院患者は大変ですね。 入院患者は傷病兵ということで、入院しても軍隊調! そこで号令一下、患者自らの体温測定。 もちろん症状の軽い患者さんでしょうが この雰囲気からは、他にもいろいろと自らしなければならない事がありそうにみえます。 今日は熱っぽいだのあちこち痛いなどと言って寝てられない様子 ゆっくりと療養出来たのでしょうか? 戦時中とはこんなもの…だったのでしょう。 ところで持って行ったお琴で演奏出来たのかな? チョット気になりました。 右近伯母の事についてはあちこちに思い出が残されています👉