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4月, 2015の投稿を表示しています

水洗便所の排水先

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<3b-36-4>   村の中心を2m巾位の川が流れ 花崗岩の橋が八ッ橋式 (*1) にかけられ 橋の傍に大根だの牛蒡だの村の生産品を洗う為の洗場と 少し下った所に洗濯場がしつらへられてある平和な村のたたずまい  が何とも水草の茂りようが凄まじい 聞けば川上の小学校から水洗便所の排水を流すようになってからだという 井戸に電気ポンプも取りつけたしで今では川で物を洗う人はないそうな (*1)八つ橋:小川などに巾の狭い橋板を数枚、折れ折れに継ぎつづけ架けた橋 《凡人の雑感》 またまた下の話です。 一つ思い出すと関連して次々に思い出すようですね それにしても汚水をそのまま流していたのでしょうか? そんなことはないですよね、 処理済みの水を川に排水していたのでしょう。 私もこの話から思い出した話を一つ紹介します('◇')ゞ 会社勤めの昭和60年頃、職場のグループで山口県の川にハエ釣りに行った時のことです。 釣りに詳しい人の案内で、とある川に到着し川原に下って魚を釣る人、釣った魚を料理をする人とそれぞれ分れました。 私は釣の経験はほとんどないので飲み食い専門で参加していました。 釣れた魚を捌き、また小さな魚はそのまま丸っと油でから揚げ。 「やっぱ新鮮な魚は揚げてもうまいバイ」 とお酒に絶好のおつまみとなりました。 食後は川原に坐り、川の流れなどを見乍らの~んびりとしていました。 ふと少し離れた対岸の崖を見ると、年配の女性が何やら重たそうに容器を持って下ってきます。 何??? 水辺まで来るとその容器らしきものを川の水で洗い始めました。 あんな風に外して持ち運び出来るとは知りませんでしたが なんとそれは汲み取り式便所の磁器製便器です(*_*) 手慣れた様子だったのでだれかが 「おい、あの婆ちゃん何時もこの川であれを洗ろうとるんバイ」 ・・・すぐに丸ごと食べた魚のことを思い出しました・・・ とはいえ、魚はすでに腹の中。 その後特にお腹に関する問題は何も発生せず無事帰宅しました。 めでたしめでたし? この種の話は他にもいろいろありますが… でもこの辺でもうやめます _(_^_)_

船で鯉料理を食べたら・・・

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<3b-36-2> 折角香港に来たんだから船の支那料理喰べなきゃと行ってみたら舳先で鯉を釣っている 泳いでいる奴を料理してくれると大いにハッスルして喰べ満腹して  さて便意を催してきたので厠に入ったら 落ち行く先は水の中 舟の中だもんとふと見るとパクッとくいついたのは鯉 とたんに胃のあたりがグッとこみ上げてきたという 《凡人の雑感》 誰かから聞いた話でしょうが また下の話ですね😅 でも昭和の頃には日本でも当たり前の話で・・・ 私の子供の頃は 戸畑の街の中でも汲み取り式の便所でした。 バキュームカーのまだ無い頃は、天秤でトラックのタンクに担ぎ上げ、 そのトラックの 荷 は新川の河口で船に移し替え、洞海湾の外の海に捨てていたようです。 だからそこらあたりで釣った魚を「クソ喰い魚」な~んて云ってる人もいました。 ゜○。    ゜ >゜))))彡  <*)) >=<  <+ ))><< 失礼しました <(_ _)>

久邇宮良子女王来幡時のうわさ話が賑やかに

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<3b-34-5> 同じく天皇日常 (*1) を読んで 久邇宮良子女王 (*2) として最後の墓参に佐賀や鹿児島へ御旅行の途次 八幡にもお立寄りになった 処女会員として八幡駅のホームに並んだが折よく私のまん前は菊の御紋の良子女王の御席 老人席は筵を敷いた後側に坐らされたので列車は高すぎるし 少し前に一雨さっときたので雨をよける傘もなく哀れなお出迎えだった さて八幡製鉄にもお立寄り本事務所でご少憩の御 予 定とのことで万一の用意に便所をしつらえていたらお使いのなったらしい  と聞いた男が使用後の便所をのぞき見に行って守衛に見つかり警察に捕まった とか  又抽出し式になっていてモミガラが敷きつめられてあったとか 見てきたような話が流れた 又見に行った男の細君が妊娠中でショックで流産したとか 話は中々賑やかだった (*1):天皇日常:「日本人よ!」(伊丹十三選集 第一巻)岩波文庫にあるようです。 (*2)Wikipediaでは以下の様に説明しています。 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。 名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。 久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩主公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)。 祖父の朝彦親王は男子9人を儲けており、東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。 また、五女・島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。 《凡人の雑感》 話は少しわかりにくいですが、大正12年頃の話でしょう。 亡母はその生きた時代のためか、やはり皇室はあこがれ敬っていました。 香淳皇后の「錦芳集」もまだ本棚に残っています。 絵画は好きでしたが、昭和の時代に皇后陛下の画集ということで買ったものでしょう。 でもここで出て来る話題は ・・・ (-.-) どーも、下ネタ好きな一般庶民が集まるとこんな話題になるのですかね。

母が座右の銘に書いていたもの

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<3b-26-5> 憎まれて 憎みかえすな 憎まれて   憎み憎まれ 果しなければ 火の車 作る大工は なけれども   おのが作りて おのが乗りゆく 心から 横しまに (邪に) 吹く 風はあらじ   雨こそ夜の 窓は打つらめ 世の中は 貧ぢゃ有徳ぢゃ 苦ぢゃ楽ぢゃ   何ぢゃ彼ぢゃとて 末は無茶苦茶 ひとりひとり 持って生まれた 顔なれど   よくこうも又 ちがうものかな 朝起きて 夕べに顔は 変らねど   いつの間にやら 年をとりけり 子爵 伯爵 公爵よりも   国の宝は 肥柄杓 母が座右の銘に書いていた句をいくつか思い出した 《凡人の雑感》 これみな道歌というようです。 道歌というものは知らなかったので、辞書を見ると  『道徳・訓誡の意を、わかりやすく詠んだ短歌。仏教や心学の精神を詠んだ教訓歌。』 だそうです。 座右の銘にしていたのも納得する内容が並んでいます。 …少し皮肉っぽい内容もありますが… これは亡母が記憶の中から引っ張り出してきたものですから、記憶違いがあると思われます。 そこで少し調べてみて見付けたものを以下に記しました。 「憎むとも 憎み返すな 憎まれて 憎み憎まれ 果てしなければ」 「火の車 作る大工は あらねども 己が作りて 己が乗り行く 」 「火の車、作る大工は なけれども 己が作りて己が乗り行く」 「心から よこしまに降る 雨はあらじ 風こそ夜の 窓は打つらめ」 「心より よこしまに降る 雨はなし 風こそ夜半の 窓を打つらめ」 「世の中に 負者有徳者苦者楽者 なん者か者とて末はむしゃくしゃ」 「朝起きて 夕べに顔は 変わらねど いつの間にやら 年は寄りけり」 そういえば、以前の首相が披露していたものに 「まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまん丸」 歳をとればこうなりたいと思います。 それなのに最近の色々なことがらにヤキモキ、イライラしているのはまだまだ人間が出来ていないからでしょうか。 うちの女房が好きだというものに 「なせばなる なさねばならぬ なにごとも 成らぬは人の なさぬなりけり」 『なるほど!』 と納得していると、探している中にこんなものも 「なるように なろうと