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8月, 2014の投稿を表示しています

舟山に登る

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<1b-35-4> 「舟山に登る」とは田子の浦にうつる富士の山陰に 舟を漕ぎよせるのを言うそうですが ほんとに舟が山に登るのを見た母はびっくり 幾回も大蔵川の大岩でダイナマイト爆発の稽古をして  官舎の屋根瓦を割ったり  赤旗を立てゝ通行を遮断したりした後 河内ダムが出来上がり  満水したので警備や救助の為の舟がトラックに積まれて登ってゆく 「 世の中変わった 」 永い事母の口癖だった 《わたしのメモ》 北九州市八幡東区にある河内ダムは八幡製鉄所(現新日鉄住金)のダムで1919年(大正8年)に着工、1927年(昭和2年)に完工しています。 製鉄所の大蔵の官舎に住んでいたので、工事の様子をよく見ていたのでしょう。 ダムの下流は大蔵を通りますが、板櫃川(いたびつがわ)となっています。 しかし別名「大蔵川」とも言うようです。 「舟山に登る」は 一般的な故事諺の「船頭多くして船山に登る」と思いますが ここでは違うようです。 それにしても当時の大工事だった様子がわかります。 下の写真は1971年8月頃の河内ダム。 石造りのダムが綺麗です。

洞海湾一周

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<1b-34-4> 若松は島郷と言われてもわからなかったが 一周して初めて田圃の中の小川と思ったのに 干満があり 船が帆かけて航くので理解出来た そう 陸続きでなくて島郷だった 《凡人メモ》 昭和40年年代(六十歳代)の頃だと思います。 ワンダーフォーゲルに参加して若い人たちに交じり「戸畑-若松-脇ノ浦-脇田-岩屋-あま住-浅川-折屋」など約40キロ程を歩いた時のことのようです。 これが自慢で、島郷の話と共に何度も聞かされました。(^^ゞ 他に島郷の提灯山の話もよくしていました。 夜の田圃の水に映ってとても綺麗だったとの事。 小石の提灯山笠 については戸畑の提灯山と同じ姿のようですが、島郷の山笠はどんな姿だったのでしょう?

直江山城守の出世

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<1b-34-3> 一城の主は何万石と呼ばれる者から 下は何人扶持 (*1) と云はれるのは 食禄 (*2) といい徳川時代の経済改革 直江山城守が武功によって侍分から一城の主に出世したら 妻がびっくり この後どうして沢山の米を精白しようといったそうな (*1)扶持(ふち):棒禄を給して、家臣としておくこと (*2)食禄:知行、扶持 《凡人メモ》 *昔の笑い話ですね😁

お台場の石運び

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<1b-34-2> 「お台場の石運び むこうで飯(ママ)食(ク)うて二十三文」 これは維新の少し前 東京湾品川沖にお台場建設に続いて神戸にもお台場を作ることになり 全国から人夫が集められた時 仕事唄として歌われたそうな 亡母が梅川忠兵 (*1) の使い果 し た(?) 四五十両や 芋一貫目二十四幸(文)等と共に歌はれた時代の経済を知る参考になるからと話してくれました (*1)梅川忠兵: 👉 梅川忠兵衛 《メモ》 私にはさっぱり『 この時代の経済を知る参考 』にはなりませんでした(^^ゞ 神戸市兵庫区のページの『和田岬砲台』には   元治元年(1864年)大阪湾岸防衛のため、勝海舟の設計で完成したもので国の史跡に指定されている。 中央に石堡塔という丸い砲台があり、直径 12.12メートル、高さ10.60メートル、砲門11カ所となっていた。  当時は「お台場」といわれて、人々に注目されていた。  大砲はすえられることなく終わった。 と紹介されています。このことみたいですね。 「梅川忠兵衛」を題材とした人形浄瑠璃の演目『冥途の飛脚』(近松門左衛門作)のことも話題にはいっているようですが・・・  私にはよくわかりません。

月日の経つのは早いもの

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<1b-33-2> 「歯のないお母さんに食べさせるんだから硬い沢庵丁戴」  と云って店頭で「この親不孝者」 と叱られたのはついこの間の様な だって 硬くないと卸金にかからないので仕方がない 馬鈴薯も卸して団子に丸めてすまし汁に浮ばせると又変わった料理になるし 蓮根も牛蒡もこうして他家にはないものを食べさせました そしてお金がもったいないと云う母に 三日しきゃ食べなかったとしても噛んで食べるように勧めて 義歯をいれさせたのは昨日の事の様です 七十六才で死んだ母の年にもう手がとどく程に私も老いた 月日の経つのは早いもの 《雑感》 これは昭和54年春の頃書いたものだと思います。 まだ71歳だったのに・・・ この当時は病気で体力が衰え、体も少し不自由になり始めていました。 ユーモアを交えて書いているものの、少し弱気になっている様子。 私も歳をとって同じような気持ちに向かっているような気がします😞

お話の小父さん巌谷小波先生

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<1b-32-3> 北九州市八幡区(以前の八幡市)の大蔵電停前に日鉄の養成所 (*1) という建物がある 此処に大正六年か七年頃 巖谷小波 (*2) 先生の講演会があって その頃少女の友の愛読者だった私は 首を長くしてその日を待っていた ところが生憎四五日前から体の調子が狂ってしまい 医師の往診を求める羽目になって当日になった そこで一計を案じて 体具合がよいので通院して来る と嘘を云い医院の前を素通して会場にむかった 母は帰りがおそいと医院に尋ね 来ていない事を知ると心当たりを探し歩いた 大騒ぎになっているとも知らず してやったりと得意満面で帰ったのに一度でペチャンコ どんな話をきいたのか肝腎な事は忘れて 大目玉食ったのだけはっきり憶えている テレビ放送で お話の小父さん巌谷小波先生を見て (*1)日鉄の養成所:昭和30年代には八幡製鉄所の大蔵教習所がありました。         現在はマンションなどが建っているようです。 (*2)巖谷小波:いわや さざなみ         1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9 月5日)は、        明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。        (Wikipedia 2020/01/03) 《メモ》 「少女の友」と巖谷小波の接点はよくわかりません もしかして「少女世界」かな?

入院中の病室の窓から

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<1b-32-1_2> ねえねえ あの向う岸の男性 もう長い事川の流れをしゃがみ込んで見てるのよ 身投げするには川は浅いし 上水道も断水する程水涸れの年だけどあゝして長い事居ると気になるのよ 人通りの少ない川端で何の為にあゝしているのかな 気にかかる人だな あゝ彼女と待合せていたのね 病室の窓外も退屈しないものね と隣のベッドより声あり 国道三号線から町道に曲った所の淋しい場所に 工事会社の事ム所があるのでトラック等の駐車場とされる空き地がアッケラカンと広がっている 朝は事ム所も多忙だが 私達こちらの川岸の病院も 検温だ 朝食だ 点滴だと窓外を見るひまはない 夕方 見舞い客も来ないし 退屈になった頃 工事々務所に人が集まり始め トラックと崖の間の狭い空地に男が五六人並んで立つのを不思議に思って目をこらして見つめたら アッ 病院の窓からま正面に 立ちション 川に向かって 《メモ》 昭和53年(福岡渇水の年)のころの入院中の病院の窓からの眺めです。 病院の前を流れる川、とても入水自殺できるような川ではありません😜 そして 昔はよく見ていた「立ちション」も最近はさすがに見かけなくなりました。 ・・・と思ったら 私も数日前、団地の公園の隅でオジサンの立ちションを始めました。 私は犬の散歩中なので気づかないふりをして通り過ぎようとしたのですが オジサンあわてて~  歩き始めたようです。 『大丈夫だったのかな ズ・ボ・ン』

櫻井忠温の「肉弾」を読んで

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<1b-29-3> 教育テレビによると櫻井忠温の「肉弾」は明治のベストセラーだったらしい カーキ色に赤い縦線のはいった歩兵が書いたとすぐ分る装丁で 割合小型だったとおぼえている 家族の誰が買ったのか 本箱から引き出して来て 小学四・五年頃読んのではっきり思い出せないが 戦争ってむごいものと思った そして梅谷さんて方の二〇三高地の話(少尉で従軍し手に弾傷の跡) 父が日本海々戦砲声におびえつゝ 帆柱山 (*1) 中に逃げた話 父だけ赴任して母は大坂に在り 護送された将兵の為 蚊帳を縫ったとのこと 大きな蚊帳は軽傷兵の為なのでペチャクチャと私語しつつ縫ったが ひとり寝の小型は 重傷兵に使われるだろうと皆しめっぽい思いで縫ったとのこと 文楽の呂太夫さんが…(途中判読不明)…友達に細君を***時 大層ニュースになったとかで 戦勝祝いの旗行列にのしを背につけた仮装が人気を呼んだ話も事のついで話していた 又 野中校長 (*2) が五月二十七・八の海軍記念日は絶対あしや行きの遠足だったし 話は はずんで母の十才の西南戦争にまで及び 中津から船で大坂の安治川に着き 村田蔵六 (*3) によって整備されたのちの赤十字へ収容された由 担架ではこばれる者 人の肩にすがる者 杖でゆく者 その姿は十才の母に強く残ったらしい (*1)帆柱山:北九州市の帆柱自然公園の一部。      子供の頃は皿倉山や権現山も含め全体を帆柱山と言っていたことがある。 (*2)野中校長:亡母の通っていた大蔵尋常小学校の校長。 (*3)村田蔵六:大村益次郎。       たしかに日本赤十字社は西南戦争を機に創立したようですが、        村田蔵六との関係はわかりません。亡母の記憶違いかな? 《メモ》 この文は昭和53年、亡母70歳の頃のもの。 教育テレビでの番組『櫻井忠温の「肉弾」』を見て、昔両親と戦争の話をしたことを思い出したようです。 亡母の父(私の祖父)は文久2年(1862年)生まれ。 八幡製鉄所ができるとき大阪から来て八幡・大蔵の官舎に住んでいました。 日露戦争の日本海海戦は1905年(明治38年)5月27日-28日 八幡でも日本海海戦の砲声が聞こえたというのはびっくりです。 でも福津市の東郷神社のある大峰

外傷は気づかいしてくれるが…

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<1b-27-3>   呼吸(イキ)すれば    胞の中にて鳴る音あり    凩よりも淋しきその音           石川啄木 倒れて頭を怪我した時 繃帯(?)を鉢巻みたいに巻いてバスで通院したら 老人だから余計目立ったのか 見知らぬ人にまで声をかけられた 小さなキズなのに人目を引いて面映ゆかった 目が痛んだり腕が痛んで夜もねむれぬ程苦しんでも 人目にはつかないので分らないらしい    外傷ならと 思う痛みや 青葉かげ 《メモ》 私も歳をとったが周りには元気に見せたいと思う。 他の年寄りより若く見られたいと思う。 かと思うと 衰えた体を労わってほしい、  ねぎらってほしい   同情してほしいとも思う。 何なら憐れんでほしい・・・😞 なんと老人とは身勝手なもの? でも、通院する病院の待合室で 「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」 なんてことわざか格言が貼っていた。 なるほど、納得!! (特に 年寄り のところは・・・) これはあちらこちらに貼っててほしいな~ そんなことを思いだした正真正銘の老人です。

友達っていいな

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<1b-25-3> 友達ていいな 入院中は四人部屋だったので いつも賑やかだった 一人部屋の人が羨しがって よく話の仲間にはいりに来たものだった 点滴さへなけりゃ もっと入院していたかった 《メモ》 エッ!もっと入院? 確かに賑やかな方が断然好きだったけど・・・

大好きな話

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<1b-13-1> 大好きな話 息子に嫁を貰ったそうな 幾年月が経つうちに嫁の実家の家運がかたむき家計が不如意になった時 嫁はゴボー一本 葱四五本と姑や夫に内密に実家へはこぶ小さな秘密を作ってしまい 之を小姑に見付られ 姑に耳打ちされてしまった 姑は腹を立て 嫁を究明すべく友達に相談に行った 友人曰く 嫁を泥棒とよべば どういう事になるか 世間の人はあそこの嫁はどろぼうそうな そんならそんな嫁をもらったあそこの婿もお姑さんも同じようなムジナぢゃなかろうなと あんたの値打も下がろうばい それより 私は年ばかりとっても気のつかん事ぢゃった 実家の事を気遣う気持ちを察してやれないで済まんじゃった といって 買い貯めてある砂糖1K 着なくなった服一枚持たせてやったらどろぼう嫁ぢゃあるまい あんたの気持ち次第ぢゃがどうな と話したそうな お姑さんも親友の苦言に そうぢゃ そうぢゃと丸くおさめたそうな それから又幾年か過ぎて 嫁の実家は昔以上に栄えて 世間の人に あちらの家も こちらの家もよい家ぢゃと羨ましがられるようになったそうな めでたし めでたし (西村の姉娘より聞いた話)

母校より東京の女学校に生徒を送る

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(1a-20) 堀口市長 (*1) さんは家が無いそうな  そんな噂が子供の耳にもはいった 末弘市長さんの後は家主の和田さんが 自分がはいるからと断られ市長公宅のなかった頃とて 市長さんが来る事が出来ないそうな 所が同級生の野村さんの家に市役所が目をつけ 追い立てているそうな  そんな噂が事実となって野村医院は神田町へ引っ越して 後に市長さんがはいってこられた 意地悪な市長さん と子供仲間に評判が悪い 所が四月になって一人の転入生が紹介された 市長さんのお嬢さんだ  しかも私と机が一緒  翌日甲斐さんが東京弁になった 「堀口さんを誘いにいっちゃったらお母様が出てきちゃって いっちゃったって おっしゃったので 私きちゃったのよ」 よくおぼえているでしょ 七十才になっても忘れない程 流行したのですよ 人気の程が知れるでしょ 矢絣 (*2) の銘仙の着物に桃色の帯しめて 東京の子はなんてきれいなんだろうと 六年生だった一年間をどんなにうきうきして過した事か 二人びきの俥 (*3) で出勤する市長さん 八幡様のお祭りに衣冠束帯で木靴をはいて 市長になったらこんな姿もしなければいけないかといわれたらしい市長さん  お嬢さんから色んな話を聞いた思い出  開けて大正九年の製鉄のストライキも静まり三月になると堀口さんは受験のため東京に行って御茶の水女学院に行かれるそうな  お別れの挨拶そうな  お見送りに駅まで6年生全員で行く 合格そうな となると祝電打つと二人 三人寄ってひそひそ話  私も一つ机で一年過しているので打たずばなるまい 小銭を汗ばむ程握り〆めて 中央区の郵便局に行ったが 生まれて初めての経験だし 親にも友達にも先生にも秘密なので うろうろし乍らもついに電報が打てたそのうれしさ 翌日 朝礼の時に校長曰く 「我が校から東京の女学校に生徒を送ったのは開校以来である まさに我校の名誉である」と・・・・・ 先生たちもウキウキしてたのよね (*1) 堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日(明治5年1月29日)-1935年(昭和10年)3月11日)   日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。 (*2) 矢絣:やがすり。矢飛白。絣柄の一。絣模様

日本で最初の美人コンテストの話から

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(1a-20) アップダウンクイズで末広 (*1) さんのお嬢さんが明治四十一年に日本で最初の美人コンテストで一位になり大層な評判だったという 末広さんは小倉市長をやめられてから八幡の町長に迎えられ 大正七年 八幡市になって臨時市長をつとめ 堀口市長が正式に赴任するまで大蔵の和田さんの家に住んでいられたので可愛がって戴いた 当時奥様は病気勝ちだったとかで 東京のおやしきにいらっしゃるという噂で 市長さんの身の廻りの世話は片山さんという方がしておられました  その片山さんに男の子がいて 私と同年位だったので 私の家は官舎ですぐ近くだったのでよく遊んだものだった  だって東京のおやしきから片山さんのお子さんに珍しいおもちゃがよく送られて来たので それにたかっていたようなものだった 中でもローラースケートはとくにしつこくねだって とうとう貸して戴き 足につけて立上ったとたんに ずでんどう と見事にひっくり返ってしまった  そのびっくりした事 痛かった事 生涯二度とはいた事がない 市長さんは 又 子供好きだったらしくお家にいらっしゃる時は色々の話をして下さったが 何を話したかおぼえていない 只 16才で西郷隆盛方の一兵として明治10年に初陣され その時ヒタイに刀傷を受けられたとの話はよくおぼえている 電話も珍しく 大蔵には市長さんのお宅と水源地に製鉄から取付けられたものがあったきりだったが かけさせてもらへるのは市長さんのお宅だけ  でも子供に電話をかける用事もなくよく交換局に時刻をたづねたものだった その末広さんが市長もやめられた後も大蔵に住んでいらしたのでお葬式は大蔵で営まれ 東京からお嬢様が奥様の名代としてみえられた  さあ大変  美人のお嬢様見たさに大蔵中の女共が集まって来た 私もその中に居たがそのお美しい事 さすがに学習院出の才媛 黒の喪服が印象的だった  なつかしい思い出の一コマ・・・・・ (*1)末広⇒末弘ヒロ子 《メモ》 北九州市の「 八幡東区の歴史について知りたい 」によれば 明治22.4.1   町村制施行(尾倉・大蔵・枝光村合併、八幡村に) 〃 33.2.15   町制施行  〃 34.2.5   官営製鉄所東田第一高炉火入れ(操業開始) 大正 6.3.1   市制施

夜の保育園

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<1a-19> 朝はゴミや木の葉を必死で追っかける園庭も 夜はアベックの手頃な逢引の場所となる 玄関は門燈があって明るいし 床(ユカ)は保母さんが綺麗に掃除されているし 人目は少ないし こんなよい場所はない とばかり甘いささやきは毎晩のように聞こえてくる  ぐっすり寝込んで居る中は苦にならないが いったん耳につくと凄く耳障りなもの 戸を引開けて「ねむれないよ」と云えば 「人の恋路を邪魔するものは牛にけられてと云うぢゃない」と口答えする 「小母さんだって中原の海岸散歩した事もあるし 電信柱の数のわからなかった憶えもあるけど 人に迷惑をかけなかったよ スカートに草の青汁がつかないように ビニールの風呂敷でも持って一晩おき位には他所にも行ってよ」 と大笑い 《メモ》 昭和のデートは夜の保育園? でも、住んでる者にとって迷惑千万! とはいえ  自分の若いころも少~し思い出した?

親の務め

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(1a-17) M 子と Y ちゃんの手を引っぱって母ちゃんが園にはいって来るなり母子三人がワッと泣き出した これは母子家庭の人で 母さんは勤務  M 子は小学1年  Y ちゃんは此処の保育園児 もう保育園は皆帰ってガランとした時刻 母親に少しでも早く夕飯を作ってもらいたいばかりに 又小学1年では下校が早いので弟を連れて帰ることでカギッ子の淋しさを救われたいし 幼い頭をひねっての行動でした しかし年端も行かない子供の事  Y ちゃんが近所の子にいぢめっ子されると  M 子が敵討ちに出て皆の鼻つまみになった 今日も今日とて M 子のヒステリーがエスカレートして 取ってはヒッカキ つかんではひっかき 夜叉 (*1) か巴御前 (*2) の様な働きだったらしい 仕事帰りに市場の買い物を済ませ 帰宅したとたんにどなりこまれたお母さんが目に見えるよう 「どうしましょう」と母さんが云う 「こんな事では仕事にも行けない」と云う だから云いました 6才の小学1年の M 子は一人 向うは世帯盛りの大人が4、5人と喧嘩しているのよ M 子はえらい  M 子はしっかりしてると思うな お母さんは先ず M 子の味方 理解者 友達にならなければいけないな 味方になったらガンコに口をつぐんでいるのも話してくれると思うな よく話を聞いた上で M 子にも謝らせようし お母さんも奥さん方に謝るのよ 又  M 子に理のある所はおだやかに奥さん方と話し合って 姉弟が近所の人達に可愛がられる様にしむけるのが親のつとめと云うものじゃない 晩食一回位たべなくても死にはしない 今から保育園の小母ちゃんがこう言ったと話していらっしゃい 何なら私も行って上げようか と云ったら 親の務めがよく分りました と帰っていった あれから万事都合よくいっていたのに 姉弟大学も出て就職も出来たと喜んだのも束の間 母ちゃん若死してしまった (*1)夜叉:やしゃ。 八部衆の一。形貌醜怪で人を害し食うなど、猛悪なインドの鬼神。 (*2)巴御前:巴(ともえ)。源義仲の妾。  武勇すぐれた美女で、常に義仲に従い、武将として夫を助けた。 《メモ》 ・・・

給食にクレーム

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<1a-15> 給食のホーレン草のごま和えの中に さびて折れ曲がった古釘がはいっていたと母親が云ってきた 絶対にそんな事はない うそだと思う どうしてすぐに云ってくれない 今日になってそんな事云って きっと意地悪してるんだと思う でも母親も園児もそんなひねくれた人とは思えない 常々好ましい人柄と何彼につけ思っていた人だ でも釘がはいっていたなんて 給食婦として仂くようになってから生魚や氷物は食べないようにしたり 手の荒れにもハンドクリームは使はずにグリセリンんをつけたり 給食材料を洗うにもよくもそれほど丁寧にと云はれる程洗ったり 気をつけていたのに と年甲斐もなく涙が出そう でも その子に 「小母ちゃん そんな筈ないと思うけど あなたは嘘云う子でないから信用するわ いつの間にか見落としたんでせう ごめんなさい これからも何かはいっていたり牛乳瓶のカケラやら気をつけてね 小母ちゃんも もっと気をつけるからね」 と謝った この子 卒園してから5年も経つが今日もお母ちゃんと2時間も立ち話してきた 《メモ》 真偽のほどはわかりませんが 日頃から気を付けていただけショックだったのでしょう。

園児のお迎えが来ない

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<1a-13> 夜の九時というのに  S子 のおむかえが来ない 家の子達と夕飯をおあがりと言ってもたべない お菓子も絵本もテレビも遊具もいやだ  「父ちゃんの馬鹿」 と泣くばかり ぢゃ送ってゆくと出てみたが まだ幼くて 又夜道が暗くて悲しいのか帰り途を教えてくれない 思い余って父ちゃんの勤務先へ電話してやうやく住所が分ったのでバスで送っていったら留守 又呑み歩いてどこかの道端でわめいているか寝ころがっているか 仕方ない父ちゃんだ だから母ちゃんに逃げられるんだ お隣の奥さんが「預かりましょう もし今夜帰らなかったら泊めておきます」と云って呉れた 奥さん ありがとう とうちゃん 世の中の人は皆苦しみ悲しみにたえているのよ 酒で悲しみを忘れようとせずがんばれ 《メモ》 これは昭和30年代かな? お迎えを待っている子達も、最後の一人になると 遊ぶこともせず、玄関でただじっと待っている。 さみしさや心配などをじっと我慢しているのだろう 短日や灯ともる園舎に母待つ子 としこ

ある夜の訪問者

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(1a-12) 28日の御用納めも無事に済み先生方も帰ったので大急ぎで餅米を洗い 餅屋へ親子で運ぶ 『9の餅じゃないの 28日のが搗きおくれているの』 と餅屋が毎年の事なのでちゃんと呑み込んでいてくれる 翌日二臼の餅を 又 親子で賑やかに持って帰って やれ掃除だ 煮〆の段取りだとしゃべっていると人の訪う声 出てみると強盗殺人前科24犯 今刑務所を出たばかりという男が立っていた 近所の人が  保育園に行ってみよ 何とかしてくれるかもね と教えたそうな 馬鹿こくでねえ こっちは名高い貧乏人だ でもね 「給食の残りでよかったら食べておいで 残り物と云っても食べ残しではないよ」 と言ったら嬉んで喰べてくれた 十程の駅までの汽車賃を上げたら出かけたので頼って行く先で会えなかったら あすの朝の食事に早速困るだろうと餅10コ程包んだら 私の手を握り 「あんた良い人だね ふるえてるね ワハッハッ」だって 気持ちのよい筈ないや ある夜の訪問者 《私のメモ》 うーんこの話…半信半疑 (・・? 私が忘れただけなのかな~ でも面白可笑しくよくできてる! 亡母は話好きで、冗談話をして笑わせるのが好きだった。 この話も少しの実話から冗談話として練り上げた可能性もあり? それにしても強盗殺人前科24犯とは・・・😅😉

選挙運動で私には挨拶がない…

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<1a-11> 小さな保育園だが市会議員の選挙だと候補者がやたらと挨拶に来る それぞれの紹介者に連れられて事務所で深々と頭を下げている でも 園長先生も主任も保母さんも皆他地区からの通勤者で 一票あるのは給食係りの私一人なのに 紹介者も意地が悪いと云うか 候補者が間抜けと云うか 給食室に顔を見せる人は誰もいない 紹介者の中には朝 野党の候補者を連れて来て 午後には [与党] の外車で威張りちらしてくるのもある だから私の一票はとても清潔な一票だ 投票日は胸をはって大いばりで行く 《メモ》 昭和51年頃のこと 候補者さんたちは 給食係りの一票よりも  たくさんの園児の親たちに推薦してほしいと思ってたのではないでしょうか。 亡母のちょっぴり僻目かも・・・ 😁

安政元年・ロシアの船が難破して

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<1a-10> ひょんな津波に アイウエオ ロシヤは頭を  カキクケコ 破船の修理を  サシスセソ 俄に小屋が   タチツテト 二度目の早風は ナニヌネノ ようよう岸まで ハヒフヘホ 手足は砂に   マミムメモ 舟には綱付け  ヤイユエヨ とうとう沈んで ラリルレロ 異人は 涙 で   ワイウエオ これは安政元年 ロシアが我が国と和親条約を結ぶ為 下田港に来た プーチャン (*1)使節の乗艦 ヂアナ 号(*2)が 11月4日の下田地方をおそった地震と津波に大損害をうけたので  君沢郡戸田村で修理すべく駿河湾に入って  又暴風にあい さんざんな目に会った時の歌です でも江川太郎左エ門外の沢山の人が この 事があった為に洋式造船をはじめて学ぶ事が出来て意義深い出来事でした 此頃駿河湾地震がよく報道されているので 昭和51年11月29日 (*1 )プーチャン⇒プチャーチン ( *2 )ヂアナ号⇒ディアナ号 《メモ》 昭和51年(1976年)頃の日記です この歌はいろは歌の一種?それともざれ歌? 初めてお目にかかりました。 それにしても明治40年生まれの亡母がなぜ知っていたのか・・・ そのころまでこの歌がはやっていたのか それとも祖母から教わったのか・・・よくわかりません なお歌の説明にある幕末のことに関しては亡母の記憶している事柄で、事実とは異なるかもしれません <(_ _)>

園児のおねしょに つい口出し

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<1a-09> 又やったらしい 雨なので机を重ねて椅子をのせてその上に昼寝布団が干してある 保母さんも あまり毎日続くので愛想がつき ター坊を叱ったのか べそをかいているし お迎えのお母さんも顔赤らめて身も世もないと云った風情で居る ター坊もつらいだろう 何とか寝小便の止まる方法はないものかと給食係の身も忘れて考え込んでしまう 保母さんの仕事に給食係が口をはさむのは悪いと思ったが そっと園の裏から抜け出してター坊待ち伏せして話した ター坊が寝込むと体温で蒲団があたたまりオシッコがにおい出して便所へ行ってる夢をみてしくじっているんぢゃないかって・・・ それでお母さんの発想で新しい蒲団を拵えてきたと言って持って来たらと言ったら そうかも と早速二三日かかりで縫い上げて昼寝させたら その日からおねしょしなくなった そんな事あったとも知らないター坊はもう中学生 人なつこい笑顔でよく話しかける 《わたしの雑記》 園児のおねしょに つい口出し… 亡母の性格ですね

子供の夢や自慢話は可愛い

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<1a-08> 北杜夫さんの『あくびノート (*1) の狼と少年』の項を讀んで思い出した 電気洗濯機 カラーテレビ 電気掃除機の三種の神器だった頃の事 園児が登園して来るなり 「うちも電気洗濯機買った」とひとりが云えば 「あたしん家カラーテレビ買った」と言う 不思議とも思わず皆豪勢ねと勝手にだまされて目を丸くしたものだった 『おもちゃの…』と云う名刺が抜けていたなんてこっちが間抜けな話 男の子は新幹線に乗って東京タワーに行ったのは博多か別府のタワーが多い ヒコーキはデパートの屋上のものが多い 子供の夢て可愛いものだ まゆみちゃんの家に泥棒がはいったので巡査が来た 荒らされた場所を調べる巡査にまつわりつく様にして見ていたまゆみちゃん 巡査が「もう外になくなったものはありませんか」とたずねたら 「アッ 金庫がない」 これは金庫型の貯金箱で まゆみちゃんのおかね500円程の被害 (*1) あくびノオト <私の落書> 『らくがき帖』の最初の頃は前書き通り保育園での給食婦時代の思い出が多い。 それもその時代にタイムスリップしたように書いてあります。 その後は次第に戦中戦後の苦労話、若いころの思い出話、さらには昔話などが出てきます。 この話に出てくる 白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機を三種の神器としてもてはやされたのは昭和30年代とのこと カラーテレビは30年代の終わりごろの様です 今も昔も子供の夢や自慢話って可愛いですね

書き始めたきっかけなど

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No.1a-7 《内容》 厚生年金ホームで生活するようになって 上げ膳 据え膳の結構さが私には 有難すぎて退屈で無聊 (*1) で何ともやる瀬がない 信仰するような素直さは持合せないし 生かすような趣味の高尚さもないし 受給額はホームの支拂と電気代でチョンチョンなので遊ぶ金はないし ままよ ひまつぶしに18年の給食婦生活をかえりみて 思い出すまゝを書いてみよう 松風草はどんな花の姿になるか どんな色に出来るか (*1)無聊:ぶりょう。      ①心配事があって楽しくないこと。      ②つれづれなこと。たいくつ。 <私の雑感> 亡母は明治40年生まれで77歳で他界しました。 昭和46年に退職するまで18年ほど給食婦として保育園で働いていたので その間の思い出を書くつもりでこのノートを70歳近くから始めています。 書き始めた動機を少しユーモアを交えて書いています。 「給食婦生活をかえりみて」とありますが 次第に昔の思い出話が多く書かれています。 そしてその時の体調などにより愚痴、泣き言、あるいは自慢話なども混じっています。 まるでその時にタイムスリップしたような感じも見えます。 ただ、時々『記憶違いでは?』と思えるところもありますがそのまま転記しています。 題名の「松風草」は「徒然草」を意識しているようです。