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10月, 2015の投稿を表示しています

求菩提で即身成仏の行に入った人

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<4-78-5> 昔の武士には切腹という刑執行の方法があったそうなが 介錯する後見がいたという 乃木将軍夫婦だけは おのおのひとりで死んだという 旅順開城の唄はよくお手玉繰りながら唄ったあの中に  死所を得たるを嬉べりの句がある けふ四日 求菩提山で即身成仏の「行」にはいった人がある 《巷の凡人の雑感》 歌は『水師営の会見』ですね。 歌詞の6番に 『二人の我が子それぞれに    死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目』と 大将答力あり とあります 即身成仏の話は 求菩提山 龍王院の住職(大行満) 山田龍真が 昭和57年4月に求菩提山7合目 七日間即身成仏行(土中行)を行った時の事の様です。 これは悟りを開いて仏になることで 即身仏(ミイラ)とは異なるそうです。 当時、私も「即身成仏=ミイラ」になろうとしていたと勘違いしていました。 亡母も同じ心配をしていたのではないでしょうか? そんなことから乃木希典殉死(切腹)や 水師営の会見の歌の『死所を得たる…』が出て来たと思います。 大正時代のお手玉の唄は『水師営の会見』だったのですね。 私の子供の頃は別の唄でしたが、まだ戦争中の唄(みたいなもの)であそんでいたようです。 写真は1965年頃下関の乃木神社で撮ったものです

漢口で終戦を迎えた直太朗さん

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<4-77-4> G. 直太朗さんは 漢口で終戦そうな 上海目指して旅立つ日 支那人が何人もやってきて 干し飯だの干し果物だのを持ってきてくれ  どこそこには誰々が居るから頼れと言ってくれ うれしかったそうな 人柄だな 《凡人の雑感》 漢口から上海まではかなりの距離があるようです。 引揚者の皆さんは大変苦労して本土に戻ったようです。 このかたは無事に戻られたので、こんな話が聞けたのでしょう。

母と大宰府に行き玄昉の墓を見つけた

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<4-76-2> 若い頃 母に大宰府を見せたいと天満宮 都府楼 観世音寺と回り歩いた折 玄昉の墓を見付けた 玄昉とは何をした人だろう これを知りたいと尋ねたが誰も知らない わづかに岩波から発行された本があったが廃刊になったと知る その後まつかぜ荘で松本清張の書いたものを読んだ丈け 磐木(磐井)の乱は古事記のどこいらだったかと 中程から読みだし最後の頁にたった一行出ていた あの本もいつ失くしたのかな 《凡人の雑感》 玄昉の墓は 「大宰府マップ(大宰府観光協会)」によれば以下の通りです。 『僧正玄昉の墓』は 奈良時代、遣唐船で中国に渡った有名な僧の墓 観世音寺境内の北西には、僧玄昉(げんぼう)の墓と伝えられている宝篋印塔がある。 玄昉は奈良時代の僧、阿倍仲麻呂、吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ、紫袈裟を許された。 帰国後、奈良の宮廷で権力を振るったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。 政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられている。 それから 松本清張『眩人』(1980年、中央公論社)は  玄昉をモデルにした歴史小説だそうです。 それで 当時の玄昉の墓はこんな感じだったようですね  これは当時の『大宰府地方名所名刹共同編輯發行』の『大宰府まうで』からのものです。 また、古事記で磐井の乱についての記述は継体天皇の所の最後の個所に、確かに有りましたが これを見つけるのは結構な努力が入りましたよ~ 工業高校出身の私としては全く解読できない文ですね。 でも、これを機会に古事記も読んでみたいと思ってます。 ところで 玄昉と磐井の乱、どう結びつくのかはわかりませんでした

買出し

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<4-75-2> <4-75-3> <4-75-4> ここ 宗像 も芋の買出しに歩いた所 原町 入免 (イリメ)  王丸と軒並みに頼んで歩いたとタクシーの運転手さんに話したら あの頃は大変でしたでしょう  でもあの頃と関係ないみたいに立派な街になったでしょうと笑っていた 赤間駅に経済 (*) が出ていたら国道3号を海老津まで歩いた トンネルの上の峠の茶屋までの登りを   K 子  T 彦  K 子  T 彦と子の名をよんで登るので有名になってしまった 下ると川を渡り 土堤をよぢ上り  まっ暗な中を駅のホームの裏口で列車を待つ 老人ホームの J 野さんに 「芋の買出しに追っかけてきた巡査ぢゃないだろうね」 と云ったら 「かもね」と冗談が返ってくる平和な時代 有がたい 《 凡人の雑感》 私は終戦の年はまだ3才未満。 戦後いつ頃まで買出しに行ったのかは知りません。 赤間駅から海老津駅までは7.1Kmほど。 親は買い出しの荷物を持っているので幼い私も自分で歩くしかない? 小さかったので必死で歩いていたのでしょう。 親が後ろを振り向くと私が居ないのであわてて探したところ、泥だらけ(もしくは灰だらけ)になって土手の下に落ちていたそうです。 私が大きくなったころ、笑い話としてよく話していましたね。 経済とは経済警察。 当時、食料は配給制度だったので、闇屋や買い出しの取締をしていたようです。 捕まれば元も子もないですね… 戦中・戦後にかけて、我が家は次々と家族が亡くなり、母子3人の家庭になってしまいました。 周りの人が、「次はこの子だね」と私の事を云ってたとか・・・ それでも生きてこれたのは、買い出しのおかげだったのでしょうか…

戦争は悲しい思い出ばかり

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<4-74-7> 悲しい終戦時の思い出 うどん玉を鷲づかみにして食べたが飢えがひどくて胃が受付けぬらしく 全部吐き出していた人や  寒さと飢えで断末魔の痙攣を起していた子を 手の施し様もなく見守っていた日 寒中訓練の途中 道路にしゃがみこんでしまった子を叱る教師に思はずくってかかった思い出 買出しに行った中津駅で食事を抜いた子に持っていた弁当を食べさせてしまい 今度は自分が困っていたら 後を追っかけておにぎりを持ってきた見知らぬ女の子の有がたかったこと 戦争は悲しい思い出ばかり 《雑感》 内容の一部は既に出ていますが、戦争中の悲しくいやな思いがいつまでも強烈に残っているようです。

暑さ寒さも彼岸まで?

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<4-73-6> 「暑さ寒さも彼岸まで」と云えば 「いーえな 寒さの果てはおしょうらい (*1)  天王寺のおしょうらいが済むまでは油断がならない」 と大坂弁で答える母 おしょうらいとはどんな御供養なんだろう その後 「井伊かもん (*2) さんには雪が降った」 井伊掃部(イイカモン) と桜田門の事変を云って ひなまつりが済むまでは寒い日もあるという 《凡人の雑感》 「おしょうらい」と書かれていますが ここでは云うのは聖霊会(しょうりょうえ)のことのようです。 これは 聖徳太子の命日、旧暦2月22日に聖徳太子の御霊をなぐさめる為に行われる大阪の四天王寺の行事だそうです。 井伊かもんさんのことは 安政7年3月3日(旧暦)に江戸城桜田門外で大老の井伊直弼が暗殺された事件のことで 当時、季節外れの雪が降っていたといいます。 掃部頭[かもんのかみ]」という名前は、井伊家の殿様が代々使った名前だそうです。 「昔、子供の頃は雪が多かったね。最近はいっちょん降らん。」 「やっぱし温暖化の影響かね」 なんて我々年寄り同士で話していますが、最近は4月に関東で雪が降った話もときどき聞きます。 そして今度は「寒冷化」なんて言葉を聞く様になりました。 今度は寒冷化対策も必要になってくるのでしょうか。 うーん、どっちなんだ?