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11月, 2014の投稿を表示しています

昔ってそんなもの

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<2a-74-3> 結婚式後四日目に出勤したら午後雨になった 傘と長靴を持って工場の門まで迎えに行ったが まだ顔を憶えていない 八幡製鉄所は人も知る沢山の労働者が退業して来る おぼつかない気持ちで待っていると一人近づいてきた男に傘と長靴を渡してあとからついて帰ってきた と 娘が大きくなった頃話したら  父ちゃんでよかったね よその男だったら大変なことになっただろうね と信じられない様な顔してる 昔てそんなものだったのよ 《巷の凡人の日記》 たしかに退勤時には多くの労働者が門からぞろぞろと出てきます。 その中から「 父ちゃん 」を見付けるのは大変だったと思います。 でも…それにしても…( -_-;)

子供の誕生と戦争の進行

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<2a-73-4> 盧溝橋一発の銃声 (*1) の頃はお腹も目立ちはじめ 十二月六日長女誕生 冬至には南京陥落 (*2) と南瓜を 食 べた その頃から出征兵士を送り始め 十五年長男誕生 防空演習に狩り出され 十八年次男誕生 空襲に怯える こんな時代でしたので楽譜のわかるのは珍らしく アコーデオンを町内費で買うから 出征兵士を送るとき奏でる様にいはれたが 奏法を知らず固辞したら 今度は伝令を仰せ付かった 母親には防毒マスクが与えられたが 背中の子には何の防備もない 生めよ殖やせよ はかけ 声だけかと町内会長につめよった (*1)盧溝橋事件:昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋で起きた         日本軍と中国国民革命軍との衝突事件で日中戦争が始まる (*2)南京陥落:昭和12年(1937年)12月 《凡人の雑感》 明治40年生まれの亡母は、音楽が好きで楽譜も読むことができました。 仕事を辞めてからは、中古のオルガンを買ってきたほどです。 戦時中の話では・・・ こんな言葉もよく聞きました 建物疎開(我が家も強制疎開させられています) 空襲警報(屋根瓦を転がる焼夷弾の音が戦後もずっと耳に残ってたみたいです) 防空壕(まだ小さかった私が泣くのでヒンシュクをかってたようです) 戦争中は内地でも空襲に怯え、 終戦後は空腹に耐え 「戦争はいや」と云いたくなりますね。

妹の結婚と室戸台風の思い出

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<2a-72-6_> 「大坂天王寺 石の鳥居前」と大正の頃 子供の回虫駆除薬に「 セシン (*1) の薬」を売り歩いている人があった すると母が天王寺の池に経木を流した話や左甚五郎の猫が日光とここで猫の夫婦やと話してくれたり 話がはづむと 一心寺の話まで発展して 私は大坂人の子やと感じた 妹の縁談がまとまり結納の使が来幡した時 肝腎の結納が行方不明になった時は 天王寺の五重塔が台風で倒れた時だった 幸に結納を積んだ貨物列車は途中の駅に避難していて無事がわかり 日を改めて吉日を ト(?) して済ませたが 天王寺の再建は妹の心の奥深く沁みていたらしい その後の手紙で 当家 の名が何時の世にかに書かれていたとかで それが縁で生家の名と婚家の名を刻んだ瓦を寄進したと書き送ってきた (*1):セシンと読めますが、該当するものが無くよくわかりません。 《巷の凡人の雑感》 亡母の妹(稀子)は室戸台風の年(昭和9年)秋に大阪の家に嫁入りしています。 室戸台風と妹の結婚が重なり、結納のことなどで思い出となっているようでした。 結婚写真にも手書きで「一次室戸台風 十一月三日」とメモしていました。 妹の結婚では、亡母が嫁入り道具などをそろえてやったとかで、特別な思いもあったと聞いています。 室戸台風は昭和9年9月21日 四天王寺では五重塔と仁王門が全壊したとの事 五重塔は昭和14年(1939年)ころに再建されるが、昭和20年(1945年)の大阪大空襲で国宝の東大門他伽藍とともに焼失。 現在の塔は1959年(昭和34年)建立の八代目。とのこと。 この話からみると6代目、7代目の瓦には当家の名が入ったものがあったのでしょうが 残念ながら今の五重の塔には残ってそうにまありません。  四天王寺の「猫の門」の猫も左甚五郎の作だとか  一心寺の話とは?   わかりません。  ただ、父が亡くなった時、戦後の混乱期の為に遺骨は一心寺に預けたと聞いていたので、母が亡くなった時に一心寺に行ったことはありますが…(わかりませんでした。) ここに記している話は途中はしょっているためかよくわからない個所が多くあります 自分の頭の中ではしっかり記憶があるのでしょうが いま読んでみると内容が今少しわかりません

教師は大道芸人にもいる

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<2a-70-8_> 香具師 (*1) が云った 「手」程病気(怪我も)を一番に知るものはないという 胃を病んで頭を抑へる者はいない 足を怪我して手を抑へる者はいない 「あ痛」と最初に「手」で抑へた所が患部だ 後になると神経が左右されてくるが 最初に抑へた処をよく憶へておく様と言った 教師は大道芸人にもいる (*1)香具師:野師・弥四。   縁日・祭礼などの人での多い所で見世物などを興行し、   また粗製の商品などを売ることを業とするもの。てきや。(広辞苑第Ⅱ版) 《凡人の雑感》 香具師といえば 子供の頃は、近所の市場の入口にもよく来ていました。 おぼえているのは その砥石 で研いだ剃刀はちり紙の小片を刃先に吹きかけると、ちり紙は真っ二つに切れる!! 毒蛇に噛ませた腕の傷が、 そのキズ薬 をつけると、たちまち血も消え傷跡もなくなる!! 事前に紙などを斬って見せた刀の刃を握りしめ、さらに見物人にその上から紐などで縛らせた後に刀を引き抜いても、 その塗り薬 を塗っていた手のひらは切れてない!! こんな夢のような商品を面白おかしく売ってました。 子供心に、何とかタネを見付けようと最前列で長時間見ていましたが、売り手も上手で判らずじまい。 結局、半信半疑のままでした。

戯れ歌?

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<2a-70-3> 裸でふるえてるフルカ橋 (*1) それが苦になる ク ニツ 橋 (*2) 盲の蚤とり ミナト橋 (*3) 《巷の凡人雑感》 さて、これは何でしょう? 亡母がその父母から習ったのでしょうが、解説がないのでさ~っぱりわかりません。 すべて大阪の橋なんでしょうね。 とすれば橋の名は(*1)~(*3)のようになるのかもしれません。 (*1)フルカ橋:古川大橋? (*2)クニツ橋:国津橋(1952年に無くなる) (*3)ミナト橋:湊橋

父母の思い出

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<2a-70-1_2> 大坂弁まるだしの父母 あれは南の大坂弁やから下品なと云はれても 皆同じに聞える私は九州育ち お盆になると父が三味線持ち 母が盆踊りを踊り 母が三味線をひくと 父が踊り 福岡県くんだりまで来てしまった淋しさを 夫婦でまぎらわせていたみたい 母は地唄で育ったので「たぬき」 ( *1) だの「ゆき」 (*2) だの好きだった 「菜の葉」 (*3) それから何だったっけ (*1)(*2)(*3):いずれも地唄の代表曲のようです 《巷の凡人の雑感》 亡母は上方生まれの父母の影響で文楽や歌舞伎、そして地唄などが好きでした。 私が子供の頃には押入れに破れ三味線もあり、たまに出していましたが、皮を張り替えることなど出来るわけでもなく、いつの間にかどこか見かけなくなっていました。 明治34年頃に北九州の八幡に来た祖父母。 当時、大阪から見た八幡は猿や猪と一緒に暮らしている場所と思われていたようです。 もっとも、今でも住宅地に猿や猪が出て来る事は時々あるようですが… (^^ゞ

チョンちゃん

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<2a-67-4> チョンちゃん まだ年が若いのに一ぱしの運動員の様に演壇に立っても すぐ話す種につまって立往生する癖に 話したがる そこで一計を案じて 政府を罵倒すると臨検の警察は危険分子とばかりひきずりおろしてくれるので 聴衆にボロを出さずに済むという 共産党員もいろいろ 《巷の凡人の雑感》 ハハッ! チョンちゃん、その後どうしたんだろう?