投稿

1月, 2015の投稿を表示しています

河内の百姓、朝市の帰り

イメージ
<3b-8-3> 河内 (*1) の百姓が暗い内に野菜を積んで朝市に下って来るのは子供にほとんど関心はない もっぱら帰途についた時 それも午後四時か五時頃 競り値が高く懐が脹れて酒を一杯ひっかけ ほろよい機嫌で馬に引かれて帰って来る姿 行きは馬の手綱を引いて頼もしかったのに 帰りは馬があの長い顔で崖からすべり落ちないように 川へ落ち込まないように飼ひ主を庇ばい乍らの姿 いっそ荷車に乗っかってくれればよいものを なまじ手綱を握りしめて歩くので 涙の出そうな甲斐甲斐しい場面を幾度見た事か あの頃は大藏 (*2) から河内まで四キロ程あったが その間家は一軒もなく灯りもないまっ暗な道の筈 川に落ちた飼い主の急を知らせにひた走りに走って帰った話等 一度ならず聞いたものだった (*1)河内:現在の北九州市八幡東区にある地名 (*2)大藏:同上 《凡人の雑感》 本当?  馬は利口だとは云いますが…   それでも信じられないおはなし。 なんだか愉快で楽しい内容で… 日本昔ばなしに加えてもよさそうな話です 😆

長官さん用の自動車が八幡に来た

イメージ
<3b-8-2> 長官さん (*1) 用に自動車という物が八幡にもきて 試運転に官舎を一周するそうな と噂がパッと広まった 当日誰かが「来た来た」と言うので それとばかり神田町 (*2) に向って走ったが通り過ぎた後 それではと勝山橋のたもとで待っていると 上の官舎を通り水源地の方から疾走してくる生まれて始めて見る自動車 胸は高なるし顔は火照るし怖くはあるし そのうち十メートル程に近づいた時 丁度井戸新設の為土管がいくつも置かれていた一つに思はず四ツ這いになってころがりこんだ目前を まっ黒いかたまりになってすごい勢いですぎて行った 大正二年か三年頃の話 (*1)長官:製鐵所長官? (*2)神田町:現在の大蔵2丁目あたりのようです 《凡人の雑感》 大正2年か3年といえば、亡母は6才から7才くらいですね 初めて見る自動車に大興奮だった様子が目に浮かびます。

大正天皇即位

イメージ
<3b-8-1> 大正天皇の即位 (*1) は小学校の二年だったろうか 軒毎に奉祝提灯がともされ旗行列が行き シャギリの列が繰り出した 大藏小 (*2) は太鼓がないので空鑵をガンガンたたいて進むので騒々しい事 夕方の仮装行列に同級生の千代子さんも加はるとかで お母さんの八寸帯をお太鼓に結んだので お太鼓に頭と足があるみたいで ボンチ可愛いやねんねしなと それは面白い姿になった 校医の疋田さんは お手のものの湿布用油紙で束帯を作り 履物は下駄に黒く塗った紙で張って形を整え ガサガサ ポカリポカリと珍妙な仮装だった (*1)大正4年(1915年)11月10日に京都御所で即位の礼を行う (*2)大藏小:福岡縣遠賀郡八幡町立大藏尋常小學校です 《私の雑感》 大正天皇の即位の時、亡母は8才で尋常小学校2学年。 御大典祝賀行事は各地方で行われたようですね。 昭和の御大典時の資料がスクラップとして残っていました。 臨時の…といっても立派な…救護所までできてたようです。 当時の京都には大勢の人が来たのでしょうね。 私の場合 平成の始まりで当時の小渕官房長官の 「新しい元号は『平成』であります」が何故かいまだ記憶に焼き付いています。 母は残念ながら  平成を迎えることはできませんでした。

明治天皇の御大葬

イメージ
<3b-7-3> いつの頃からか「明治天皇の御大葬 (*1) 覚えているか」と問いかけ くわしい答えが返ってくれば年金が上と判断する様になった 明治天皇の諒闇 (*2) に続いて 照憲皇太后 (*3) の喪がしかれ 即位の式 (*4) が繰り伸ばされた 御大葬の行列の人形を小倉の延命寺に見に行き 序に動物園にはいり ワニを棒で突ついて係りの人に大目くったし 諒闇が終って黒いリボンでなく花のついたリボンや蝶の模様のリボンをつけてもよくなって嬉しかったし 大きな声で歌っても注意されなくてすむ様になってホッとしたものだ 子供って無邪気なもの (*1)明治45年(1912年)7月30日に崩御した明治天皇の大喪儀が、      大正元年9月13日に行われた。 (*2)諒闇:りょうあん。天子が父母の喪に服する期間。      その期間は1年と定められ、国民も服喪した。      (昭和天皇崩御時は13日間) (*3)昭憲皇太后:明治天皇の皇后 (*4)即位の式:大正天皇の即位の礼。大正4年(1915年)11月10日に行われた。 《私の雑感》 大正元年と云えば亡母五才。 喪に服すというよりも リボンの色や動物園でのいたずらが印象に残ってたのでしょう。 でも動物園って? 到津の動物園はまだできてなかったようですし… ところで 昭和天皇の崩御は昭和64年(1989年)1月7日 大喪の礼が平成元年(1989年)2月24日 私はテレビで見ていました。 その頃は40歳代で現役ばりばりで働いていましたが 当時は会社の飲み会などは自粛したのですかね。 日記にはその日に「大喪の礼」と記入してあるだけで記憶もあまりありません。 私より年上の方達はいろいろななことが想いめぐったかもしれませんね。