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12月1日は乙子の朔日

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<4-71-4> 12月1日は乙子 (*1) の朔日 (*2) と云って末子の為の雑煮を祝っていた 妹が生れてから乙子でなくなったので末子の正月を指をくわえて羨み ぢっと我慢したもの 我慢することはこんな風にして教えられた   鼻たれも 次第送り (*3) (*1)乙子:おとご。      末に生れた子。末子。おと。 (*2)乙子の朔日:おとごのついたち。乙子の祝。         旧暦十二月一日に行う祝。         この日、餅を喰えば、水難をまぬがれるという。 (*3)次第送:しだいおくり。       順々に送って行くこと。順送り。 ※鼻垂れ子も次第送り 《凡人の雑感》 我慢もなにも… 私は祝ってもらった記憶はまったくありません。(一一") 戦中戦後の子にはそれどころではなかったのでしょう。 そんな時代でなければ 私は末っ子なので、ずっとず~っと祝ってもらえるはずだったのに(´・ω・`) そういうわけで 乙子の朔日やおとごの祝などはじめて聞く言葉です。 昔は子供が無事生長するのは大変だったので 一年間何事もなく無事育ったことを祝っていたのでしょうかね

子供の頃の遊びなど

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<4-70-4> <4-71-1> <4-71-2> <4-71-3> 春の朝焼け傘を持て 秋の夕焼け鎌を研げ 朝の虹は隣の家に行く間がない 狐の嫁入りは雨のしるし 夕暮れ近くになると明日の天気を下駄占いしたり 雀や鳩が見えなくなると雨 鳶の声が聞えると雨 叔母心と春の陽は呉れ(暮)そうでくれぬ 秋の陽は釣瓶おとし 叔母家にかかるより 秋山にかかれ 子 とろ 押しくらまんぢゅう ほたる狩り せみとり とんぼつり こうもり落し よめな菊の花ビラで吉凶占い むぎ笛 草笛 椎ノ葉笛 そら豆ほうづき ごむほうづき ほうづき 山桃の枝は折れ易く枝もろとも谷へ落ちたり 椿は折れにくいが無果実は裂け易い へくそかずらの生い茂った葉の上に脱皮した蛇の皮が白く長々と横たわていて これをお金入れに入れておくと お金に不自由しないと教へられたが 無 気味でしなかった 蛇は道を横切る にらみつけているとどくろ (とぐろ?) は絶対に解かない 冷血動物てほんとだ 冷やっとすると同時に寒気がする 思い出すままを書いてみたがよくもいろいろ遊びをしたものだ  まだ歌につれて遊んだものやゴム毬 お手玉 竹串 小石 棒切れ をおもちゃにしたもの  炭俵で草スキー 水鉄砲  思い出したら際限がない  まことの本をみたので書いてみた メンコ遊びは小学一年になったら止めなきゃと云はれたので 3月31日の夜はおそくまでメンコをヂャラヂャラと思いっ切りもて遊んだ  父も母も最後だから思う存分遊べとゆるしてくれたし いい思い出だ 《凡人の雑感》

子供の頃のあそび

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<2a-48-3> 花占い (*1)   疊算 (*2)   オカメフ (*3)  子供の頃こんな遊びもしたもの なつかしいな (*1):花占い:「好き、嫌い、好き…」の女の子の遊びでみたいですね。 (*2):疊算:「かんざしなどを畳の上に落し、その落ちた所から畳の編み目を端まで数えて、その丁・半で吉凶を占うもの」【広辞苑第2版】    私の子供の頃には知りません (*3):オカメフ:これは私も子供の頃も遊んでいた『オナベフ』と一緒かな? 《凡人の雑感》 亡母の子供の頃と云えば大正時代 疊算などはかんざしをさしている頃の遊びだったのでしょう。 当然私は知りません。 私の子供の頃は昭和20年代 オナベフは遊んでました。たしか手首から二の腕まで指で測ってたと思います。 じゃんけんで階段などでの遊びは今でもたまに見かけます。  グーはグリコ  チョキはチョコレート  パーはパラシュート 冬には「オシクラマンジュウ」「トビウマ」「ケリウマ」「Sドン」「カンケリ」etc. ゲーム機などなかった時代、こんな単純な遊びで楽しんでいました。 「パッチン」「ランチン」なんてのもあったけど私は持っていなかった😞 遊びじゃないけど思い出した・・・ 『紙芝居!』 飴を買う金なんて持ってなかったが 追い払われるわけでなく、しっかり見てました。 でも、「買った子が前よ!」と後ろにやられていたっけ 子供ながらにそのルールをちゃんと守り(?)、初めから後ろで観るようにしていましたね。

志賀島へ新船が就航予定

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<4-66-2> 「伊勢に詣らば お志賀にかけよ お志賀かけねば片詣り」 昔 伊勢まいりした折 古老が伊勢音頭でこう教えてくれた その志賀島へ新船が就航予定という 《凡人の雑感》 伊勢音頭の歌詞と云えば、まず 「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」 のようです。 「伊勢参りに 朝熊(あさま)をかけよ 朝熊な~かけねば 片参宮」 というのもありました。 しかし「お志賀詣り」の入った歌詞はどこを探してもでてきません。 家にあった昭和16年頃の写真の中には 「男鹿まゐり」や「男鹿詣り」と書かれた写真が何枚かあります。 その中の写真には香椎駅や香椎宮、さらに伝馬船のような渡し船に乗った写真も含まれているので、そこは志賀島のようです。 その志賀島にある神社と云えば『志賀海神社』。 志賀海神社に参ることを『お志賀詣り』と言ってたのでしょうか? 志賀島に行くには、車で海の中道を通り志賀島橋を渡ります。 志賀島橋の開通は昭和5年か6年頃のようです。 そうすると写真の昭和16年頃は車で渡れるはずですが 車がまだ普及していなかったのか、戦争中の物資不足でバスが走らなかったのかで 船で渡っていたと勝手に推測します。 「志賀島への新船就航」とは 昭和57年に海の中道海浜公園の開園で就航した「パークライナー」ですね。 名前とは不釣り合いな外輪船のようなレトロな格好で、楽しそうですが、今では双胴型高速船が走っているようです。 パークライナー 一度この船に乗って志賀島に行ってみたかった

枕について

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<4-64-2> <4-64-3> 枕について 木枕は角材を切っただけ 棒枕は棒を何人かで共用 箱枕は塗枕に小さな引出しがついて枕草子なんかはいっていた ござ枕 陶枕 藤枕は夏季用 坊主枕は髪のみだれの心配のない坊主用 娘の頃 桃われ (*1) や結綿 (*2) に髪を結いあげると箱枕になる 横臥して耳たぶの近くにあてがうが首がしびれて  朝 首がまわらなくなり困った思い出がある (*1)桃割:ももわれ。      女の髪の結い方の一。十六、七歳位の少女が結う。      左右に髪を分けて輪にして後頭上部で結び、鬢 (びん) をふくらませたもの。      明治・大正期に行われた。 (*2)結綿:ゆいわた。      島田髷 (まげ) の一種。      つぶし島田の中央を布で結び束ねたもの。 《凡人の雑感》 枕の種類をいろいろとあげてますが 正解なのかどうかは私にはわかりません。 それにしても 昔の人って、硬い枕でよく寝られましたね! ご苦労様です ワンちゃんだってやわらかい枕があれば   グーグー スヤスヤ (ノД`)・゜・。

戦時中の敵国人

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<4-63-2> <4-63-3> 支那料理屋を營んでいた人が二次大戦勃発のせいで支那へ送還されることになり  せめて目前に近づいた出産の日まで猶予をたのんだが無情にも別れさせられたそうな K 子と同じ年なので忘れられない 中国残留孤児の記事を見るこの頃 T 聖公会のミス. H 牧師も生国英国へ送還と決まったが  二十余年の日本布教で 英国には身寄りもなく  オーストラリアのシドニーで戦争終結を待ったが  日本を恋いつつ果てたと聞く 戦争は惨い 《巷の凡人の雑感》 戦争中には日本に入る外国人(敵国人)、また外国にいる日本人 それぞれ大変な目に会ったようです。 「戦争とはこんなもん」   で済ますには確かに惨いです。 下のパンフレットは東京市内案内の栞です。 「昭和十五年十月一日自動車に依る東京市内遊覧が休止されて…」とあるので、 太平洋戦争が始まった後のものでしょうか。 サービスの案内文の最後に『 スパイ御用心 』とあります。 なんだか不気味に感じますが 当時は疑心暗鬼になっていたのでしょうね。

母は乱雑なのを嫌っていた

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<4-62-2> 徳川慶喜が大坂城から海路江戸へ走った当時の大手門前の母の生家は 物騒の中で暮しているような時期だったらしい 色んな話をしてくれたものだった そんな幼児期だったので整頓は 命を守る手段でもあったらしく それはそれはきびしく躾けられたので いつか 習い性となる (*1) で 乱雑なのを嫌う人間になっていたんだな (*1)習い性と成る:ならいせいとなる。          習慣はついに性質のようになる。 《巷の凡人の雑感》 私は祖母を知りません。 でも 祖母の写真を見ると確かにそんな性格が表れているように感じました。 亡母もそれを受け継いでいたのでしょう。 私もず~っと 寝るときには、翌日着る服を綺麗にたたんで枕元に置くように云われていました。 子供の頃はそれをず~っと守っていたのですが、 今では朝起きてからしばらくは寝巻のまま……… 現在は、いわゆる 安全・安心の日本になった証でしょうか。 だったら ずっとずっと そうであるよう願いたいですね。

亡父は梅をこよなく愛していた

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<4-61-6> 亡父はよく生前 天満の天神さん 北野の天神さん 伊賀の天神さんと拝んでいた 天満は菅公の伯母君の館跡らしく 九州大宰府へ途次立ち寄って その池の水に姿をうつし 之を形見とおっしゃったと云う 天神橋は高いな 落ちたら怖いなと物語のあとにはよく歌ったもの 伊賀の天神さんは 大坂城落城近しと伊賀上野に疎開して暮した車坂町が天神社に近かったので なつかしかったらしい それで無骨者に似げなく梅をこよなく愛していた  … 《巷の凡人の雑感》 道真公も京都から九州へ 亡母の父母も大坂から九州へ 同じような境遇だと感じていたのでしょうか? 梅には特別な想いがあったのでしょう。 「東風吹かばにほひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」 (我が家の梅の花です)

面白い投書

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<4-57-2> 面白い投書がのっていた 「お前達のような馬鹿は居ない」 と先生から云はれたのが口惜しいという そうだ  口惜しがれ  反撥せよ  がんばれ 若いんだもん 《凡人の雑感》 亡母もこの心意気で若い頃を過したようです。

学校給食で連帯感

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<4-57-3> 学校給食について連帯感を養う為に 学校の給食を全国一律にカレーにせよと書いてあったら 12才の子が  まづ大人が連帯感が沸くかどうか ためしてみよ と投書がのっていた 今の子は仲々よい事を云う 《凡人雑感》 昭和57年当時、こんな話(投書?)があったのですね。 なるほど 「全国一律カレー」を提案した人はともかく 反応した当時の12才もすばらしい! 私も同感 (*^^)v 旧帝国海軍にもカレーはあったようだし 現在の海上自衛隊も毎週金曜日はカレーライスだとか。 なるほどなるほど 連帯感はこれで養っていたのですね。 カレーにこんな効果があったとは! それにしても 連帯感を養える和食は無かったのですかね。 味噌汁や玉子かけゴハンだって全国一律なら連帯感が生れても良いようですが……… 連帯感が養えれば次は何を求めましょう? そうですね 「連帯感」⇒「愛国心」でしょうか。 なるほど なるほど!

借家住まいの紀州藩士は

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<4-55-3> 大坂城の大手門前で袋物商を営む家に育った母は 幕末維新の時浪人した紀州藩士三人を借家に住はせていたらしい その中の一人が今の道頓堀が刑場だったせいで 刑吏として仂いていたらしい が 刑吏に珍らしい優しい人で 非番の日には日の当たる縁側で虱(しらみ)をとりながら 「コレコレ 次の世では人間にひねりつぶされる虱なんかに生れるんぢゃないよ」 と放してやっていたそうな そのせいか刑をおえてきた者が お礼にやってくることがあったそうな 《巷の凡人の雑感》 大阪の地理は精しくはありませんが、道頓堀の近くの千日前あたりに刑場があったようですね。 そんな町の中に刑場があるとは…  悪い事は出来ませんね。   ま~、見せしめには効果があったでしょう。 この刑吏ではないですが 私も年を取った今では小さな虫でも殺すことはできなくなってきました。 といっても、 いまでも、ノミやシラミだったら、見付ければ問答無用で潰してしまうでしょう。 この刑吏 確かに優しい性格のようですが シラミを逃がすような性格で刑吏が務まってたのでしょうか? とてもとても斬首刑なんかはできないと思われます。 まだまだ鞭打ち刑があったようですから、そちらのほうで手加減していたのですかね。 以上、わたしの勝手な想像です