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10月, 2014の投稿を表示しています

終戦直後の買い出しで

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<2a-63-6>  終戦直後 買出しの唐芋を背に経済係を逃れて 枝光駅に降りた そこで死の直前の痙攣する人 皆目をそむけて進行してきた電車に飛び乗った 次は漸く手にすることが出きた生うどんを 市場の人通りの多い中で そのまま立食して全部もどしてしまった空腹の男の人 今夜 昭和一ケタ生れは血管がもろいのではないかとの放送があったが 細谷さんが野菜には水をやる時季 こやしをやる時季があると言った言葉が忘れられない 戦争はもういや 《凡人の雑感》 北九州の戸畑より宗像方面に買い出しに出かけ、戸畑に帰るところだったと思います。 戸畑駅で取り締まりが行われているとの情報で、一駅手前の枝光駅で降りて電車で帰ろうとしたのでしょう。 私は当時まだ三歳前後かな。 買出しにはついて行ってたようですが、まったく記憶にありません。 物心ついた年頃になっていたとしても見たくない光景です。 血管云々の話、 亡母も血栓で片目を失明しているので戦中戦後の食生活についての思いが過ぎったかな。 亡母の『戦争はいや』は何度も聞いた言葉です。

シラミ退治

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<2a-62-4> 四月十九日 虱流行の放送 虱退治にはセンブリを使うとよい 頭髪にはセンブリの汁を塗り 下着には最後の濯ぎ水に混ぜる事 白い布は薄茶色に染まるのでそのつもりで 《巷の凡人雑感》 昭和54年頃の日記です。 この頃シラミが流行? 昔はセンブリで虱退治をしていたようですネ。 私が小学生の頃(昭和20年代)は年に一度くらい女子生徒はDDTを頭にかけられて真っ白な頭になってました。 いまではとんでもない事ですね (・.・;)

戦後の漢字制限のことなど

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<2a-57-5> 操姉さんから便りがあると 封書に巻紙で変体仮名入り候文で 判じ物でも読む様な それがどうでしょう 二次大戦後 制限文字 (*1) だの改正仮名使 (*2) だのと 頭が混乱して大あ は て ええままよ 文法なんか糞くら へ 眠れぬ夜は筆のむくまま心のむくまま書いてゆく (*1)制限文字:当用漢字など戦後の漢字制限のこと (*2)改正仮名遣い:1946年に歴史的仮名遣いから現代仮名遣いに改められた・・           らしいです 《凡人雑感》 私は学校で国文法をちゃんと習いました。 でも、未だに述語や目的語、はたまた品詞などさ~っぱり判りません。 さらに読点「、」の打ちかたもいい加減です。 現役中も  「あなたの文章は日本語になっていない」 と上司にいわれたことがあります。 以前から気になっていたので『きっちり!恥ずかしくない!文章が書ける』前田安正著(すばる舎)の本も昨年に買っていました。 しかし初めの何ページか読んだだけ。 その後は本棚の片隅で (-_-)zzz 今回を機会にまた引っぱりだしてきたところです。 ところで 亡母の文章には句読点が見あたりません。 もっぱらスペースと改行で文を綴っています。 尋常小学校も、さらに高等小学校でも習っているのですが、句読点を打つ習慣はなかったようですね。

くぐつ師

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<2a-56-2> 「胸にかけたる人形箱 佛だそうか 蛇を出そうか」と くぐつ師 (*1) が門付け (*2) に来て歌ったもの ほんとに胸三寸に佛も蛇も住んでいる (*1)くぐつ師(傀儡師):「くぐつを歌に合わせて舞わす人」とあります。             あやつり人形などを歌に合わせて舞わせた遊芸人だそうです。 (*2)門付け(かどずけ):人家の門口に立って、音曲を奏し金品を貰い受けること。【広辞苑第二版より】 《凡人雑感》 最後の一行が気になりますが・・・

冬の風物詩・猪売り

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<2a-55-6> 山口県尾道あたりから大八車に猪をのせて  毛のついたままブツ切りにして売りに来たもの これが来ると冬だなと  冬の風物詩の様に思ったもの 《凡人雑感》 風物詩ですか~ 猪料理は若い頃忘年旅行に行ったとき、珍しさから宿で猪鍋を頼んだことがありました。 そんなにおいしいものだとは思わなかったのですが、珍しいものを食べたという満足で味わったような気がします。 それ以降、食べたことはありませんでしたが‥ 数年前 息子が猟師さんから分けてもらったという猪肉を我が家にももってきました。 その大きな肉の塊を見たときは・・・(*_*; 息子は 「毛の付いたとこは取っとったけ!」と言って置いていきました。 とりあえず  その大きな塊を或る程度小分けして冷蔵庫に保管したものの   ずっとそのままの状態がしばらく続きました。 よく「命をいただく」っていわれるけど…  反論できないくらい確かにそうだけど…   そんなことを意識ながら肉を食べたくはありません。 焼肉、ステーキ、ハンバーグ等を食べながらそんなことを一度も考えたことはありません。 でも猪の大きな塊を見た時はリアルに考えました。 子供の頃は昆虫でも爬虫類でも平気で殺していたもの  それが歳をとった最近ではできなくなっています。 昔は嫌いで、見付けると即殺虫剤で殺していたクモだって、庭木の剪定の際クモがいると、なるべく別の木に誘導します。 (それで生き続けているかどうかはわかりませんが…) そうは言っても、今でも 蠅、蚊、ゴキブリ ☜これらは平気で殺します これって変ですか? ・・・で、 猪は結局食べることはできませんでした。 「猪さん、ごめんなさい」<m(__)m>

三十九まで花の内

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<2a-55-5> 十八 十九は花に譬(タト)えたら蕾 二十代は花盛り 三十すぎたら姥さくら 三十九ぢゃもの花ぢゃもの と 三十九まで花の内 《凡人雑感》 「三十九歳までが花の内」だそうです。 女が女の事をいうのであれば許せるのでしょうが 男の私がこんなことを言ってたら…と~んでもない事で… 最近はお年を召されてもお美しい方が多い だから 女性は… ずーっと花ですよ~~ (^^♪

内祝・自祝・祝

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<2a-55-4> 七、五、三 十九(成人式)は内祝 女三十三  男四十二   自祝 六十一才から先は     祝 基準は親が祝ってやるのが内祝 自分で祝うのが自祝 子が祝ってやるのが祝 《凡人雑感》 内祝いは「内輪の親しいものばかりでする祝」と一般にはいわれているようです。 また自祝いは内祝いに含まれるとも出ていましたが…

昔の結婚式

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<2a-55-3> 昔の結婚式は少くも三日はかかる  第一日は本客  二日目は顔つなぎ  三日目は友達 四日目は 五日目は  と長くかかる家もある 新夫婦はまだ何もする事もなく 向かい合っている そこえ お部屋見舞が届く 何誰さんからです と部屋にはいる口実が出来て 若かりし頃はいそいそとゆく 《凡人雑感》 昔の結婚式は大変だということがよーくわかりました。 本人達よりも家と家との関係が大事な時代だったからでしょうね。 私が当時の花婿だったらとても付き合ってはいられません まして花嫁は(=_=) 月並みですが 『昔に生まれなくてよかった!』 『名家の跡取り息子でなくてよかった』??? 『政治家の息子でなくてよかった』????? これ ちょっぴり庶民(貧乏人)の僻みもはいってますので・・・

祝儀の家からの帰り

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<2a-55-2> 三の膳 (*1) を台にのせて 大きな袱紗 (*2) をかけたのを持った人をお供に 祝儀の家から帰るの 気持ちのよいもの 途中 人のふりかえってくれるのも嬉しい 子供の頃の事 (*1)三の膳:広辞苑第2版によれば「二の膳の次に出す膳部。   汁・刺身・茶碗を据えて供する。」とある。   ちなみに一の膳は「日本料理の正式のもてなしに出す第一の食膳。本膳」   二の膳は「和食配膳の際、一の膳の次に出す膳」 (*2)袱紗:ふくさ 《凡人雑感》 祝いの儀式の帰りは気持ちよかったようです。 特にお気に入りの『お供を連れて』歩くのですから。 ここにある祝儀の膳がどんなものかしりませんが  下の絵は大正時代の『増訂改版女子普通作法教科書』からの図です。 私も母と一緒に子供の頃…といっても少し大きくなった頃…誰の、どんな祝い事によばれたのかは記憶にありませんが一度だけ祝い膳を食べたことがあります。 場所は料亭みたいなところでした。 その時横から亡母がいろいろと説明したのですが、何一つ記憶に残っていません。 御馳走なんて食べたことのない時代に御馳走を前にして緊張していたのか、それとも例によってボーッと聞き流したのか

長姉の嫁入り

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<1a-54-2> 長姉が嫁入りの夜 起されて玄関まで見送ったら 闇の中を人力車一台に1ヶ提灯を点じて並んだのを 美しいなと見た  「提灯持ちは先に行け」  だの  「お供は後から」 だの云っても今の人には通じない。 《巷の凡人雑感》 長姉は明治24年生まれで亡母より15歳年上 昔の嫁入りの様子はなんとも情緒ありますね。 ところで『提灯持ち…』の話 私が子供の頃、遠足など団体で歩くときに グループより離れてどんどん先を行く人を見ると亡母は  「提灯持ちは先に行け!」 逆にグループから遅れている人には  「お供は後からついて来い!」 と言ってました。 もちろん本人たちには聞こえないように子供の私にだけ聞こえる程度に(^_-)-☆ 「提灯持ちは先に行け」と「お供は後から」の二つはとってもお気に入りだったようです。

昔の火事跡では

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<2a-54-1> 昔といっても百年程前迄は 火事があったら焼跡から日本釘 (*1) や鎹 (*2) を探すのが一仕事だったらしい 今の様な洋釘が出来て 大工丈けでなく 日常生活も便利になったらしい 火事が出たら鍋だの何だの 金気の物は井戸に投げこんでいたらしい (*1)日本釘:和釘(わくぎ)。鉄を槌でたたいて四角に作った釘 (*2)鎹:かすがい。 《巷の凡人雑感》 八幡製鉄所東田1高炉の火入れが明治34年(1901年) 鉄製品はそれまでは輸入に頼っていたから貴重品だったのでしょうね。 もっとも、戦後も屑鉄は結構お金になって、日明の埋め立て地で屑鉄を集めていた人がいましたよね。 私も子供の頃ガキ大将(?)に連れられて皆で屑鉄を拾い集め、帰りにパン屋でラスクを買って皆で分けて食べた記憶がありま~す。 ※ 安田工業(株)の釘物語の中の「 釘の歴史 」によれば、明治20年代にはすべて洋釘となっていたとの事です。

明治の大坂の大火で・・・

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<2a-53-2>  明治六年頃大坂に大火があって 川を七つ飛び越え 北は大坂城でとまったそうな それは火が出てから三日目だった由で  その頃になると焼放題のお布告が出て 自然に鎮火するまでうっちゃらかしだって 丁度叔母さんの葬儀の前日だったので 取り敢ず死骸を長持ちに入れておいたら  火事場泥に持って行かれたが 淀川べりで蓋を開けた長持を見つける事が出来た由 泥棒の姿が目に見えるような 《巷の凡人雑感》 これは落語か漫才にでも出てきそうな話です。 死骸を長持ちに入れて置くって、その当時だからできた話かな。 大坂の大火事の記録は江戸から明治にかけても沢山残っているようです。 でも この当時、二日以上燃え続けるような大火の記録を少し調べてみましたが… わかりません (・・? この話も 亡母がその父母から聞いた話のようなので、話が次第に面白・可笑しくなっていったのかもしれませんね。 (^^ゞ

伝染病隔離

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<2a-52-2> 赤痢は赤 コレラは黄の布を付けた縄で禁止区域に縄張りして 区域内の者は通勤通学通行一切駄目  解除になるまで食事に事欠く有様だった 今ぢゃ医者でさへ ペスト患者を知らないという医学の進歩ぶり 私はペスト患者を一人見ている 《凡人の雑感》 昔は伝染病患者も多く治療も十分確立されていなかったからなのか、地域での隔離もあったのですね。