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9月, 2014の投稿を表示しています

大阪城落城や刑法のことやら

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<2a-48-4> 大坂城落城 (*1) の煽りで亡父は幕末の何年かを伊勢に伊賀に預けられていたらしい 生駒山を越えて大阪城天守閣 (*2) の焼け落ちる炎の明りのほの赤さに泣いた話 佐賀家の子と遊んだ話等していた 又伊勢では神都なので生物は殺さなかったらしく 夏には蛇が天井の梁から蚊帳の上にポタリと落ちて来ることもあるそうな それで蚊帳の裾は丸太で押えて置く 噛 みつきはしないが寝ている間に床にはいって驚く事もあるので 生活の知恵らしい 罪人も断罪は御法度で 死罪の人は 断崖 から突き落とし 命があれば逐電おかまいなしときく 近頃刑法の改正が問題になっているときき こんな話を思い出した (*1):慶応4年1月3日(1868年1月27日)   旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜、大坂城は新政府軍に開け渡された。 (*2):当時は天守閣は無く、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失したとのこと。 《凡人の雑記》 昭和54年もしくは昭和55年頃に書いたもののようですが、当時どのような刑法改正が話題になっていたかはわかりません。 文中の亡父とは私の祖父で文久2年(1862年)生まれなので5歳~6歳の頃のはなしです。 佐賀家、稲葉家は我が家の親戚。

先代の形見の百人一首

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<2a-47-2> KBC主催の百人一首大会が大宰府の余香殿であり 家に伝はる百人一首を持って行った処 手書きとのこと 木版だろうと思ったのに…… 母が祖母の形見と大事にしていたもの 《巷の凡人雑感》 簡単に書いていますが大層喜んでいました。 戦争の為か、我が家には大したものは残っていませんでしたが このかるた 先代からの数少ない形見の一つだったようです。 それが木版でなく『手書き』と知ったときは嬉しかったでしょう。 一度この札でカルタ取りをやってみたいですね。 でも 見てみれば読み札だけでなくこの取り札までも 楷書ではなく  くにゃくにゃと 草書 で書かれています。 それもきれいに文字が並んでいるわけでなく 自由自在に右から左から… 私には何が何だかわかりません ここは カルタ取りで遊ぶのではなく… 価値の有無は別にして… 我家に残しておきたいものの一つです。

百人一首

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<2a-47-1> 姉達に百人一首を教えるのに 和歌の暗誦丈けでなく名前も教えていた 母の死ぬ日は枕元に徒然草があった 《凡人雑感》 私が小学生の頃は、正月には家族で百人一首をしていました。 (当時はこれ以外に遊ぶものはなくて…) 家族と云っても亡母が読み手、姉と私の二人で札を取っていました。 私が上の句だけで札が取れるのは 「これやこの」蝉丸 「あひみての」敦忠 「あまつかぜ」遍昭 「ちはやぶる」在原業平 「たごのうらに」山部赤人 これくらいだったかな? これでは勝負になりませんね😞 一文字札の『むすめふさほせ』を覚える様に云われていましたが、結局はおぼえることが出来ませんでした。 その結果 六才上の姉にはまったく歯が立たず、いつも私の負け。 翌年までにはもう少し憶えようと奮い立っても、いつもそれっきりで次の年も大差で負け! 最後は「坊主めくり」でしめくくります。 これは対等に遊べるので気合が入っていました。 最近、この文章から作者を意識して見てみると、知らない人が沢山います しばらく勉強してみようという気になっています。 『 徒然草 』は亡母の母が好きだったので、その影響かこの落書き帖を書き始める動機について、徒然草の序段を意識したような言い回しで始まっているようです。 親子3人で遊んだカルタ

昔の寺子屋/今の学校

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<2a-46-4> 「今の学校はいいな 字を習うのに ハタ タコ マメ マス と面白く教えてくれる」 と羨む 昔は仮名47文字が寺子屋で習う最初の勉強で 女大学や漢文の素読等 全々違う 女大学なんかすらすら言える 母と同じ年齢の人は読めない人が多かったので 新聞を読む母を珍らしいと言った 《雑感》 「ハタ タコ マメ マス」は明治43年~大正6年までの国語の教科書の最初に出てくるそうです。 亡母はこの教科書で習ったのでしょう。 亡母の母は明治元年生まれで、国語の教科書はまだ決まったものはなかったようですね。 したがって、まだまだ寺子屋スタイルだったのかな? ところで 「女大学」って・・・ いまどき、この中の一条でもうちのかみさんに言おうものなら、こちらが三行半をつきつけられそう💢

七草の思い出

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<2a-45-4_> 芹 なずな  お ぎょう  はこべ  ほとけのざ   すずな すずしろ これぞ七草 (*1) 正月七日の朝早く 綺麗に洗った七草を俎板ととり薄刃と出刃で   「唐土 (*2) の鶏が来鳴かぬ先に トコトンのトントン」 と大きな声をはり上げて囃し立てたもの 寝呆け顔で不服を云うと  「今朝は七草」 とすまし顔 昔の季節の行事には 茶目っ気なものも盛り込まれている (*1)七草:①略      ②春の七種の菜、即ち芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・     繁蔞(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿羮(すずしろ)の称。     古くは正月七日に羹(あつもの)にした。     後世は、これを俎(まないた)に載せて囃してたたき、粥に入れて食べた。     【広辞苑第二版】 (*2)唐土(とうど):昔、わが国から中国を呼んだ称 《雑感》 囃し歌は地域によって違うようです。 亡母の父母は大阪出身。 この風習も大坂流で 季節の行事も楽しんでいたのですね。 このような風習  後々まで残しておきたいです。 でもっ! 私自身、七草がゆは食べたことがありません😁

母や姉兄の冗談で傷ついた話

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<2a-45-3> 妹が生まれるまで 姉や兄や時には母まで 「お前はここの家の子ではない 大蔵川を流れて居たのを可哀想と拾うて育ててやった」といわれていました それがどうでしょう 妹が生まれると 今度は妹に云ってるんです 妹とは六つ違いですし 妹が話が分る位生長してから云うんですから 大分分別もついてきた年頃になって嘘だと分りました 渡辺さん家は長男と同じ丑年生れが二人になったので悪い事が起らない様 産婆さん家の玄関先へ捨てられたそうです 言う方は面白いでしょうが 言はれる方はつらい 悲しい思いで山の彼方 河内村の空を眺めた日もありました 《凡人の雑感》 亡母は七人兄弟の下から二番目。 亡母はその母(私の祖母)をとても尊敬し仲良く暮らしていたようですが、こんな思い出もあったとは・・・ 「渡辺さん家の丑年生まれが二人」も冗談話なんでしょうね。 そうでないと怖いです (同じ性格なので気が合うとも衝突するともあるのでわかりません。もともと干支での性格判断なんてマ・ユ・ツ・バ?) 子供の多かったこの時代 このような冗談を平気で言ってたのかな

真田増丸先生のこと

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<2a-44-4> 大津屋の二階に間借して裁縫して 佛教大学 (*1)を卒業させて下さったお母さんの元に 意気揚々と帰ってきた増丸先生に お母さんは卒業証書を引き割いて 「大学卒の真実の尊敬を受けるのは この後の働きによるのです」 とさとされたという 私の知った頃は 済世軍というのを興され たった一枚の墨染めの衣にドタ靴 かすれ声で布教していらした 先生臨終の時は トラックの運転手が済世軍本部の前後一丁に筵(ムシロ)を敷きつめ 枕元に響かないようにしたとかきいた あの頃のトラックの運転手は 蛇かなんぞのように怖れられたもの よくもああまで布教されたものとおもう (*1) 卒業は佛教大学ではなく東京帝国大学という 《メモ》 真田増丸(さなだ ますまる)明治10年~大正15年 大正4年大日本仏教済世軍を設立。 北九州の八幡に本部を置き労働者層への布教活動をおこなった方です。

昔の唄

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<2a-42-1> 1.上には万世一系の 君を戴き奉り    (以下略)     ・     ・ 此頃アニマル日本といわれるので昔の唄をちょっと 《凡人雑感》 替え歌の様ですが、何時の頃だれが作ったのやら。 亡母は歌が好きで古い歌、童謡、そして軍歌までなんでも歌っていましたが この歌は聞いたことがありません。 1番、2番が元歌の歌詞だと思われます。 その内容は大日本帝国讃歌調! 「下には七千有余万」とあるので昭和の初めころの歌のように思えます。 ですがど~もよくわかりません。 3番以降になると一転して皮肉調 ここからは替え歌になっているようです。 でも戦前や戦中には歌えそうもない内容の様な気がします。 …内容が「反戦・平和」でないから大丈夫かもしれませんが… アニマル日本(エコノミックアニマル)が流行語になったのは1969年(昭和44年)頃だったそうです。 それこそ昭和40年~50年頃にもっとも合ってそうな内容に聞こえます。  そういえば『昔の唄をちょっと・・・』と言ってるのでもしかして!? いえいえ  結局よくよくわかりませんでした。 (※著作権が気になるのでテキスト化はしていません。)

豆腐屋と千両役者

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<2a-39-2> 昔 五座 (*1) の近くに水質のよい井戸を掘り当て 豆腐屋を開業 繁昌している夫婦があった 八方 (*2) を灯して朝早くから豆腐作りに精を出していると バタバタと 駆 けてくる ただならぬ足音 と思うと 灯りがもれたのか「助けてくれ」と飛び込んできたのは今をときめく千両役者 芝居のはねた後 着替えをすませて淋しい夜道を帰る中 物騒な男に襲われたらしい 命を助けてもらったお礼に役者名を付けた饅頭を売り出すことを承知したので ますます繁盛したそうな その役者の家に 正月になると花籠をもらいたさに 母は年始に行ったそうな 若い日の母にもそんなほほえましい日があったという (*1)五座=道頓堀五座     (戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のこと)  (*2)八方=八方行燈=八間:平たい大型の掛行燈 《メモ》 「母」とは私の祖母のことで明治元年生まれ。 大阪城大手門前で袋物商を営む家に育ったとか・・・

人に物を差上げる時

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<2a-38-3> 人に物を差上げる時には「 お口にあいますかしら 」と云うように母から教えられた 「 お粗末なものですが 」と決して云わない様に 好き嫌い 甘口辛口等 口にあうかあはないかはわからないが  粗末な品は人には差上げない様 又食べ残しも差上げるものではない と教えられた 《巷の凡人雑感》 これは塩月弥栄子の「続冠婚葬祭入門」にも同じように「贈り物をするときは『つまらないものですが』と言わない」とありました。 さらに「表書きにも『粗品』はやめたい」とあります。 納得です🙆

口と尻、軽いと悪いのはどちら?

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<2a-38-2> 軽いものに「口」と「尻」がある どちらも悪いものの代表だが どちらが罪が大きいか 母は「口」だという 「尻」が軽いのは或る程度本能のはたらきだからだそうだが  「口」が軽いものは人を殺すこともある怖しいものであるという 《雑感》 同感です🙋