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居留地住民の知恵?

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<3a-24-1> 居留地 (*1) は外国人が住居を構えてもよい埋立地で  神戸に出来た明治初年   小さな水槽に小判を沈めて弱電気をとおし    持ち帰り自由と広告したら     多くの群集が我も我もと水に手を入れるのだが      感電して失敗したらしい 埋立地は群集の為に踏み固められて立派な宅地が出来  居留地住民の勝ちだったらしい (*1)神戸外国人居留地:安政五カ国条約に基づき、   1868年1月1日(慶応3年12月7日)から1899年(明治32年)7月16日までの間、   兵庫津の約3.5km東に位置する神戸村(後の兵庫県神戸市中央区)に   設けられた外国人居留地である。   (ウイキペディア2014/12/05) 《巷の凡人の雑感》 この話、もちろん😉(マユツバモノ ダトオモイマス) これと似た話・・・ 高度成長期といわれる昭和40年代のマイホーム・マイカーブームのころ 田圃を埋め立てた土地は安いが地盤が悪く、すぐには家を建てると家が傾いてしまう。 そこで! 「地盤の悪い土地を買ったらまず自由に車を停めさせて、 地盤を固めさせた後に家を建てればよい」 と、まことしやかに会社の先輩が話してました。 この先輩、もしかしたら 神戸居留地の話を知ってたのかもしれませんね。(^-^) マサカ

昔ってそんなもの

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<2a-74-3> 結婚式後四日目に出勤したら午後雨になった 傘と長靴を持って工場の門まで迎えに行ったが まだ顔を憶えていない 八幡製鉄所は人も知る沢山の労働者が退業して来る おぼつかない気持ちで待っていると一人近づいてきた男に傘と長靴を渡してあとからついて帰ってきた と 娘が大きくなった頃話したら  父ちゃんでよかったね よその男だったら大変なことになっただろうね と信じられない様な顔してる 昔てそんなものだったのよ 《巷の凡人の日記》 たしかに退勤時には多くの労働者が門からぞろぞろと出てきます。 その中から「 父ちゃん 」を見付けるのは大変だったと思います。 でも…それにしても…( -_-;)

子供の誕生と戦争の進行

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<2a-73-4> 盧溝橋一発の銃声 (*1) の頃はお腹も目立ちはじめ 十二月六日長女誕生 冬至には南京陥落 (*2) と南瓜を 食 べた その頃から出征兵士を送り始め 十五年長男誕生 防空演習に狩り出され 十八年次男誕生 空襲に怯える こんな時代でしたので楽譜のわかるのは珍らしく アコーデオンを町内費で買うから 出征兵士を送るとき奏でる様にいはれたが 奏法を知らず固辞したら 今度は伝令を仰せ付かった 母親には防毒マスクが与えられたが 背中の子には何の防備もない 生めよ殖やせよ はかけ 声だけかと町内会長につめよった (*1)盧溝橋事件:昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋で起きた         日本軍と中国国民革命軍との衝突事件で日中戦争が始まる (*2)南京陥落:昭和12年(1937年)12月 《凡人の雑感》 明治40年生まれの亡母は、音楽が好きで楽譜も読むことができました。 仕事を辞めてからは、中古のオルガンを買ってきたほどです。 戦時中の話では・・・ こんな言葉もよく聞きました 建物疎開(我が家も強制疎開させられています) 空襲警報(屋根瓦を転がる焼夷弾の音が戦後もずっと耳に残ってたみたいです) 防空壕(まだ小さかった私が泣くのでヒンシュクをかってたようです) 戦争中は内地でも空襲に怯え、 終戦後は空腹に耐え 「戦争はいや」と云いたくなりますね。

妹の結婚と室戸台風の思い出

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<2a-72-6_> 「大坂天王寺 石の鳥居前」と大正の頃 子供の回虫駆除薬に「 セシン (*1) の薬」を売り歩いている人があった すると母が天王寺の池に経木を流した話や左甚五郎の猫が日光とここで猫の夫婦やと話してくれたり 話がはづむと 一心寺の話まで発展して 私は大坂人の子やと感じた 妹の縁談がまとまり結納の使が来幡した時 肝腎の結納が行方不明になった時は 天王寺の五重塔が台風で倒れた時だった 幸に結納を積んだ貨物列車は途中の駅に避難していて無事がわかり 日を改めて吉日を ト(?) して済ませたが 天王寺の再建は妹の心の奥深く沁みていたらしい その後の手紙で 当家 の名が何時の世にかに書かれていたとかで それが縁で生家の名と婚家の名を刻んだ瓦を寄進したと書き送ってきた (*1):セシンと読めますが、該当するものが無くよくわかりません。 《巷の凡人の雑感》 亡母の妹(稀子)は室戸台風の年(昭和9年)秋に大阪の家に嫁入りしています。 室戸台風と妹の結婚が重なり、結納のことなどで思い出となっているようでした。 結婚写真にも手書きで「一次室戸台風 十一月三日」とメモしていました。 妹の結婚では、亡母が嫁入り道具などをそろえてやったとかで、特別な思いもあったと聞いています。 室戸台風は昭和9年9月21日 四天王寺では五重塔と仁王門が全壊したとの事 五重塔は昭和14年(1939年)ころに再建されるが、昭和20年(1945年)の大阪大空襲で国宝の東大門他伽藍とともに焼失。 現在の塔は1959年(昭和34年)建立の八代目。とのこと。 この話からみると6代目、7代目の瓦には当家の名が入ったものがあったのでしょうが 残念ながら今の五重の塔には残ってそうにまありません。  四天王寺の「猫の門」の猫も左甚五郎の作だとか  一心寺の話とは?   わかりません。  ただ、父が亡くなった時、戦後の混乱期の為に遺骨は一心寺に預けたと聞いていたので、母が亡くなった時に一心寺に行ったことはありますが…(わかりませんでした。) ここに記している話は途中はしょっているためかよくわからない個所が多くあります 自分の頭の中ではしっかり記憶があるのでしょうが いま読んでみると内容が今少しわかりません

教師は大道芸人にもいる

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<2a-70-8_> 香具師 (*1) が云った 「手」程病気(怪我も)を一番に知るものはないという 胃を病んで頭を抑へる者はいない 足を怪我して手を抑へる者はいない 「あ痛」と最初に「手」で抑へた所が患部だ 後になると神経が左右されてくるが 最初に抑へた処をよく憶へておく様と言った 教師は大道芸人にもいる (*1)香具師:野師・弥四。   縁日・祭礼などの人での多い所で見世物などを興行し、   また粗製の商品などを売ることを業とするもの。てきや。(広辞苑第Ⅱ版) 《凡人の雑感》 香具師といえば 子供の頃は、近所の市場の入口にもよく来ていました。 おぼえているのは その砥石 で研いだ剃刀はちり紙の小片を刃先に吹きかけると、ちり紙は真っ二つに切れる!! 毒蛇に噛ませた腕の傷が、 そのキズ薬 をつけると、たちまち血も消え傷跡もなくなる!! 事前に紙などを斬って見せた刀の刃を握りしめ、さらに見物人にその上から紐などで縛らせた後に刀を引き抜いても、 その塗り薬 を塗っていた手のひらは切れてない!! こんな夢のような商品を面白おかしく売ってました。 子供心に、何とかタネを見付けようと最前列で長時間見ていましたが、売り手も上手で判らずじまい。 結局、半信半疑のままでした。

戯れ歌?

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<2a-70-3> 裸でふるえてるフルカ橋 (*1) それが苦になる ク ニツ 橋 (*2) 盲の蚤とり ミナト橋 (*3) 《巷の凡人雑感》 さて、これは何でしょう? 亡母がその父母から習ったのでしょうが、解説がないのでさ~っぱりわかりません。 すべて大阪の橋なんでしょうね。 とすれば橋の名は(*1)~(*3)のようになるのかもしれません。 (*1)フルカ橋:古川大橋? (*2)クニツ橋:国津橋(1952年に無くなる) (*3)ミナト橋:湊橋

父母の思い出

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<2a-70-1_2> 大坂弁まるだしの父母 あれは南の大坂弁やから下品なと云はれても 皆同じに聞える私は九州育ち お盆になると父が三味線持ち 母が盆踊りを踊り 母が三味線をひくと 父が踊り 福岡県くんだりまで来てしまった淋しさを 夫婦でまぎらわせていたみたい 母は地唄で育ったので「たぬき」 ( *1) だの「ゆき」 (*2) だの好きだった 「菜の葉」 (*3) それから何だったっけ (*1)(*2)(*3):いずれも地唄の代表曲のようです 《巷の凡人の雑感》 亡母は上方生まれの父母の影響で文楽や歌舞伎、そして地唄などが好きでした。 私が子供の頃には押入れに破れ三味線もあり、たまに出していましたが、皮を張り替えることなど出来るわけでもなく、いつの間にかどこか見かけなくなっていました。 明治34年頃に北九州の八幡に来た祖父母。 当時、大阪から見た八幡は猿や猪と一緒に暮らしている場所と思われていたようです。 もっとも、今でも住宅地に猿や猪が出て来る事は時々あるようですが… (^^ゞ

チョンちゃん

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<2a-67-4> チョンちゃん まだ年が若いのに一ぱしの運動員の様に演壇に立っても すぐ話す種につまって立往生する癖に 話したがる そこで一計を案じて 政府を罵倒すると臨検の警察は危険分子とばかりひきずりおろしてくれるので 聴衆にボロを出さずに済むという 共産党員もいろいろ 《巷の凡人の雑感》 ハハッ! チョンちゃん、その後どうしたんだろう?

終戦直後の買い出しで

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<2a-63-6>  終戦直後 買出しの唐芋を背に経済係を逃れて 枝光駅に降りた そこで死の直前の痙攣する人 皆目をそむけて進行してきた電車に飛び乗った 次は漸く手にすることが出きた生うどんを 市場の人通りの多い中で そのまま立食して全部もどしてしまった空腹の男の人 今夜 昭和一ケタ生れは血管がもろいのではないかとの放送があったが 細谷さんが野菜には水をやる時季 こやしをやる時季があると言った言葉が忘れられない 戦争はもういや 《凡人の雑感》 北九州の戸畑より宗像方面に買い出しに出かけ、戸畑に帰るところだったと思います。 戸畑駅で取り締まりが行われているとの情報で、一駅手前の枝光駅で降りて電車で帰ろうとしたのでしょう。 私は当時まだ三歳前後かな。 買出しにはついて行ってたようですが、まったく記憶にありません。 物心ついた年頃になっていたとしても見たくない光景です。 血管云々の話、 亡母も血栓で片目を失明しているので戦中戦後の食生活についての思いが過ぎったかな。 亡母の『戦争はいや』は何度も聞いた言葉です。

シラミ退治

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<2a-62-4> 四月十九日 虱流行の放送 虱退治にはセンブリを使うとよい 頭髪にはセンブリの汁を塗り 下着には最後の濯ぎ水に混ぜる事 白い布は薄茶色に染まるのでそのつもりで 《巷の凡人雑感》 昭和54年頃の日記です。 この頃シラミが流行? 昔はセンブリで虱退治をしていたようですネ。 私が小学生の頃(昭和20年代)は年に一度くらい女子生徒はDDTを頭にかけられて真っ白な頭になってました。 いまではとんでもない事ですね (・.・;)

戦後の漢字制限のことなど

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<2a-57-5> 操姉さんから便りがあると 封書に巻紙で変体仮名入り候文で 判じ物でも読む様な それがどうでしょう 二次大戦後 制限文字 (*1) だの改正仮名使 (*2) だのと 頭が混乱して大あ は て ええままよ 文法なんか糞くら へ 眠れぬ夜は筆のむくまま心のむくまま書いてゆく (*1)制限文字:当用漢字など戦後の漢字制限のこと (*2)改正仮名遣い:1946年に歴史的仮名遣いから現代仮名遣いに改められた・・           らしいです 《凡人雑感》 私は学校で国文法をちゃんと習いました。 でも、未だに述語や目的語、はたまた品詞などさ~っぱり判りません。 さらに読点「、」の打ちかたもいい加減です。 現役中も  「あなたの文章は日本語になっていない」 と上司にいわれたことがあります。 以前から気になっていたので『きっちり!恥ずかしくない!文章が書ける』前田安正著(すばる舎)の本も昨年に買っていました。 しかし初めの何ページか読んだだけ。 その後は本棚の片隅で (-_-)zzz 今回を機会にまた引っぱりだしてきたところです。 ところで 亡母の文章には句読点が見あたりません。 もっぱらスペースと改行で文を綴っています。 尋常小学校も、さらに高等小学校でも習っているのですが、句読点を打つ習慣はなかったようですね。

くぐつ師

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<2a-56-2> 「胸にかけたる人形箱 佛だそうか 蛇を出そうか」と くぐつ師 (*1) が門付け (*2) に来て歌ったもの ほんとに胸三寸に佛も蛇も住んでいる (*1)くぐつ師(傀儡師):「くぐつを歌に合わせて舞わす人」とあります。             あやつり人形などを歌に合わせて舞わせた遊芸人だそうです。 (*2)門付け(かどずけ):人家の門口に立って、音曲を奏し金品を貰い受けること。【広辞苑第二版より】 《凡人雑感》 最後の一行が気になりますが・・・

冬の風物詩・猪売り

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<2a-55-6> 山口県尾道あたりから大八車に猪をのせて  毛のついたままブツ切りにして売りに来たもの これが来ると冬だなと  冬の風物詩の様に思ったもの 《凡人雑感》 風物詩ですか~ 猪料理は若い頃忘年旅行に行ったとき、珍しさから宿で猪鍋を頼んだことがありました。 そんなにおいしいものだとは思わなかったのですが、珍しいものを食べたという満足で味わったような気がします。 それ以降、食べたことはありませんでしたが‥ 数年前 息子が猟師さんから分けてもらったという猪肉を我が家にももってきました。 その大きな肉の塊を見たときは・・・(*_*; 息子は 「毛の付いたとこは取っとったけ!」と言って置いていきました。 とりあえず  その大きな塊を或る程度小分けして冷蔵庫に保管したものの   ずっとそのままの状態がしばらく続きました。 よく「命をいただく」っていわれるけど…  反論できないくらい確かにそうだけど…   そんなことを意識ながら肉を食べたくはありません。 焼肉、ステーキ、ハンバーグ等を食べながらそんなことを一度も考えたことはありません。 でも猪の大きな塊を見た時はリアルに考えました。 子供の頃は昆虫でも爬虫類でも平気で殺していたもの  それが歳をとった最近ではできなくなっています。 昔は嫌いで、見付けると即殺虫剤で殺していたクモだって、庭木の剪定の際クモがいると、なるべく別の木に誘導します。 (それで生き続けているかどうかはわかりませんが…) そうは言っても、今でも 蠅、蚊、ゴキブリ ☜これらは平気で殺します これって変ですか? ・・・で、 猪は結局食べることはできませんでした。 「猪さん、ごめんなさい」<m(__)m>

三十九まで花の内

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<2a-55-5> 十八 十九は花に譬(タト)えたら蕾 二十代は花盛り 三十すぎたら姥さくら 三十九ぢゃもの花ぢゃもの と 三十九まで花の内 《凡人雑感》 「三十九歳までが花の内」だそうです。 女が女の事をいうのであれば許せるのでしょうが 男の私がこんなことを言ってたら…と~んでもない事で… 最近はお年を召されてもお美しい方が多い だから 女性は… ずーっと花ですよ~~ (^^♪

内祝・自祝・祝

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<2a-55-4> 七、五、三 十九(成人式)は内祝 女三十三  男四十二   自祝 六十一才から先は     祝 基準は親が祝ってやるのが内祝 自分で祝うのが自祝 子が祝ってやるのが祝 《凡人雑感》 内祝いは「内輪の親しいものばかりでする祝」と一般にはいわれているようです。 また自祝いは内祝いに含まれるとも出ていましたが…

昔の結婚式

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<2a-55-3> 昔の結婚式は少くも三日はかかる  第一日は本客  二日目は顔つなぎ  三日目は友達 四日目は 五日目は  と長くかかる家もある 新夫婦はまだ何もする事もなく 向かい合っている そこえ お部屋見舞が届く 何誰さんからです と部屋にはいる口実が出来て 若かりし頃はいそいそとゆく 《凡人雑感》 昔の結婚式は大変だということがよーくわかりました。 本人達よりも家と家との関係が大事な時代だったからでしょうね。 私が当時の花婿だったらとても付き合ってはいられません まして花嫁は(=_=) 月並みですが 『昔に生まれなくてよかった!』 『名家の跡取り息子でなくてよかった』??? 『政治家の息子でなくてよかった』????? これ ちょっぴり庶民(貧乏人)の僻みもはいってますので・・・

祝儀の家からの帰り

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<2a-55-2> 三の膳 (*1) を台にのせて 大きな袱紗 (*2) をかけたのを持った人をお供に 祝儀の家から帰るの 気持ちのよいもの 途中 人のふりかえってくれるのも嬉しい 子供の頃の事 (*1)三の膳:広辞苑第2版によれば「二の膳の次に出す膳部。   汁・刺身・茶碗を据えて供する。」とある。   ちなみに一の膳は「日本料理の正式のもてなしに出す第一の食膳。本膳」   二の膳は「和食配膳の際、一の膳の次に出す膳」 (*2)袱紗:ふくさ 《凡人雑感》 祝いの儀式の帰りは気持ちよかったようです。 特にお気に入りの『お供を連れて』歩くのですから。 ここにある祝儀の膳がどんなものかしりませんが  下の絵は大正時代の『増訂改版女子普通作法教科書』からの図です。 私も母と一緒に子供の頃…といっても少し大きくなった頃…誰の、どんな祝い事によばれたのかは記憶にありませんが一度だけ祝い膳を食べたことがあります。 場所は料亭みたいなところでした。 その時横から亡母がいろいろと説明したのですが、何一つ記憶に残っていません。 御馳走なんて食べたことのない時代に御馳走を前にして緊張していたのか、それとも例によってボーッと聞き流したのか

長姉の嫁入り

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<1a-54-2> 長姉が嫁入りの夜 起されて玄関まで見送ったら 闇の中を人力車一台に1ヶ提灯を点じて並んだのを 美しいなと見た  「提灯持ちは先に行け」  だの  「お供は後から」 だの云っても今の人には通じない。 《巷の凡人雑感》 長姉は明治24年生まれで亡母より15歳年上 昔の嫁入りの様子はなんとも情緒ありますね。 ところで『提灯持ち…』の話 私が子供の頃、遠足など団体で歩くときに グループより離れてどんどん先を行く人を見ると亡母は  「提灯持ちは先に行け!」 逆にグループから遅れている人には  「お供は後からついて来い!」 と言ってました。 もちろん本人たちには聞こえないように子供の私にだけ聞こえる程度に(^_-)-☆ 「提灯持ちは先に行け」と「お供は後から」の二つはとってもお気に入りだったようです。

昔の火事跡では

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<2a-54-1> 昔といっても百年程前迄は 火事があったら焼跡から日本釘 (*1) や鎹 (*2) を探すのが一仕事だったらしい 今の様な洋釘が出来て 大工丈けでなく 日常生活も便利になったらしい 火事が出たら鍋だの何だの 金気の物は井戸に投げこんでいたらしい (*1)日本釘:和釘(わくぎ)。鉄を槌でたたいて四角に作った釘 (*2)鎹:かすがい。 《巷の凡人雑感》 八幡製鉄所東田1高炉の火入れが明治34年(1901年) 鉄製品はそれまでは輸入に頼っていたから貴重品だったのでしょうね。 もっとも、戦後も屑鉄は結構お金になって、日明の埋め立て地で屑鉄を集めていた人がいましたよね。 私も子供の頃ガキ大将(?)に連れられて皆で屑鉄を拾い集め、帰りにパン屋でラスクを買って皆で分けて食べた記憶がありま~す。 ※ 安田工業(株)の釘物語の中の「 釘の歴史 」によれば、明治20年代にはすべて洋釘となっていたとの事です。

明治の大坂の大火で・・・

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<2a-53-2>  明治六年頃大坂に大火があって 川を七つ飛び越え 北は大坂城でとまったそうな それは火が出てから三日目だった由で  その頃になると焼放題のお布告が出て 自然に鎮火するまでうっちゃらかしだって 丁度叔母さんの葬儀の前日だったので 取り敢ず死骸を長持ちに入れておいたら  火事場泥に持って行かれたが 淀川べりで蓋を開けた長持を見つける事が出来た由 泥棒の姿が目に見えるような 《巷の凡人雑感》 これは落語か漫才にでも出てきそうな話です。 死骸を長持ちに入れて置くって、その当時だからできた話かな。 大坂の大火事の記録は江戸から明治にかけても沢山残っているようです。 でも この当時、二日以上燃え続けるような大火の記録を少し調べてみましたが… わかりません (・・? この話も 亡母がその父母から聞いた話のようなので、話が次第に面白・可笑しくなっていったのかもしれませんね。 (^^ゞ

伝染病隔離

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<2a-52-2> 赤痢は赤 コレラは黄の布を付けた縄で禁止区域に縄張りして 区域内の者は通勤通学通行一切駄目  解除になるまで食事に事欠く有様だった 今ぢゃ医者でさへ ペスト患者を知らないという医学の進歩ぶり 私はペスト患者を一人見ている 《凡人の雑感》 昔は伝染病患者も多く治療も十分確立されていなかったからなのか、地域での隔離もあったのですね。

大阪城落城や刑法のことやら

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<2a-48-4> 大坂城落城 (*1) の煽りで亡父は幕末の何年かを伊勢に伊賀に預けられていたらしい 生駒山を越えて大阪城天守閣 (*2) の焼け落ちる炎の明りのほの赤さに泣いた話 佐賀家の子と遊んだ話等していた 又伊勢では神都なので生物は殺さなかったらしく 夏には蛇が天井の梁から蚊帳の上にポタリと落ちて来ることもあるそうな それで蚊帳の裾は丸太で押えて置く 噛 みつきはしないが寝ている間に床にはいって驚く事もあるので 生活の知恵らしい 罪人も断罪は御法度で 死罪の人は 断崖 から突き落とし 命があれば逐電おかまいなしときく 近頃刑法の改正が問題になっているときき こんな話を思い出した (*1):慶応4年1月3日(1868年1月27日)   旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜、大坂城は新政府軍に開け渡された。 (*2):当時は天守閣は無く、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失したとのこと。 《凡人の雑記》 昭和54年もしくは昭和55年頃に書いたもののようですが、当時どのような刑法改正が話題になっていたかはわかりません。 文中の亡父とは私の祖父で文久2年(1862年)生まれなので5歳~6歳の頃のはなしです。 佐賀家、稲葉家は我が家の親戚。

先代の形見の百人一首

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<2a-47-2> KBC主催の百人一首大会が大宰府の余香殿であり 家に伝はる百人一首を持って行った処 手書きとのこと 木版だろうと思ったのに…… 母が祖母の形見と大事にしていたもの 《巷の凡人雑感》 簡単に書いていますが大層喜んでいました。 戦争の為か、我が家には大したものは残っていませんでしたが このかるた 先代からの数少ない形見の一つだったようです。 それが木版でなく『手書き』と知ったときは嬉しかったでしょう。 一度この札でカルタ取りをやってみたいですね。 でも 見てみれば読み札だけでなくこの取り札までも 楷書ではなく  くにゃくにゃと 草書 で書かれています。 それもきれいに文字が並んでいるわけでなく 自由自在に右から左から… 私には何が何だかわかりません ここは カルタ取りで遊ぶのではなく… 価値の有無は別にして… 我家に残しておきたいものの一つです。

百人一首

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<2a-47-1> 姉達に百人一首を教えるのに 和歌の暗誦丈けでなく名前も教えていた 母の死ぬ日は枕元に徒然草があった 《凡人雑感》 私が小学生の頃は、正月には家族で百人一首をしていました。 (当時はこれ以外に遊ぶものはなくて…) 家族と云っても亡母が読み手、姉と私の二人で札を取っていました。 私が上の句だけで札が取れるのは 「これやこの」蝉丸 「あひみての」敦忠 「あまつかぜ」遍昭 「ちはやぶる」在原業平 「たごのうらに」山部赤人 これくらいだったかな? これでは勝負になりませんね😞 一文字札の『むすめふさほせ』を覚える様に云われていましたが、結局はおぼえることが出来ませんでした。 その結果 六才上の姉にはまったく歯が立たず、いつも私の負け。 翌年までにはもう少し憶えようと奮い立っても、いつもそれっきりで次の年も大差で負け! 最後は「坊主めくり」でしめくくります。 これは対等に遊べるので気合が入っていました。 最近、この文章から作者を意識して見てみると、知らない人が沢山います しばらく勉強してみようという気になっています。 『 徒然草 』は亡母の母が好きだったので、その影響かこの落書き帖を書き始める動機について、徒然草の序段を意識したような言い回しで始まっているようです。 親子3人で遊んだカルタ

昔の寺子屋/今の学校

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<2a-46-4> 「今の学校はいいな 字を習うのに ハタ タコ マメ マス と面白く教えてくれる」 と羨む 昔は仮名47文字が寺子屋で習う最初の勉強で 女大学や漢文の素読等 全々違う 女大学なんかすらすら言える 母と同じ年齢の人は読めない人が多かったので 新聞を読む母を珍らしいと言った 《雑感》 「ハタ タコ マメ マス」は明治43年~大正6年までの国語の教科書の最初に出てくるそうです。 亡母はこの教科書で習ったのでしょう。 亡母の母は明治元年生まれで、国語の教科書はまだ決まったものはなかったようですね。 したがって、まだまだ寺子屋スタイルだったのかな? ところで 「女大学」って・・・ いまどき、この中の一条でもうちのかみさんに言おうものなら、こちらが三行半をつきつけられそう💢

七草の思い出

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<2a-45-4_> 芹 なずな  お ぎょう  はこべ  ほとけのざ   すずな すずしろ これぞ七草 (*1) 正月七日の朝早く 綺麗に洗った七草を俎板ととり薄刃と出刃で   「唐土 (*2) の鶏が来鳴かぬ先に トコトンのトントン」 と大きな声をはり上げて囃し立てたもの 寝呆け顔で不服を云うと  「今朝は七草」 とすまし顔 昔の季節の行事には 茶目っ気なものも盛り込まれている (*1)七草:①略      ②春の七種の菜、即ち芹(せり)・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・     繁蔞(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿羮(すずしろ)の称。     古くは正月七日に羹(あつもの)にした。     後世は、これを俎(まないた)に載せて囃してたたき、粥に入れて食べた。     【広辞苑第二版】 (*2)唐土(とうど):昔、わが国から中国を呼んだ称 《雑感》 囃し歌は地域によって違うようです。 亡母の父母は大阪出身。 この風習も大坂流で 季節の行事も楽しんでいたのですね。 このような風習  後々まで残しておきたいです。 でもっ! 私自身、七草がゆは食べたことがありません😁

母や姉兄の冗談で傷ついた話

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<2a-45-3> 妹が生まれるまで 姉や兄や時には母まで 「お前はここの家の子ではない 大蔵川を流れて居たのを可哀想と拾うて育ててやった」といわれていました それがどうでしょう 妹が生まれると 今度は妹に云ってるんです 妹とは六つ違いですし 妹が話が分る位生長してから云うんですから 大分分別もついてきた年頃になって嘘だと分りました 渡辺さん家は長男と同じ丑年生れが二人になったので悪い事が起らない様 産婆さん家の玄関先へ捨てられたそうです 言う方は面白いでしょうが 言はれる方はつらい 悲しい思いで山の彼方 河内村の空を眺めた日もありました 《凡人の雑感》 亡母は七人兄弟の下から二番目。 亡母はその母(私の祖母)をとても尊敬し仲良く暮らしていたようですが、こんな思い出もあったとは・・・ 「渡辺さん家の丑年生まれが二人」も冗談話なんでしょうね。 そうでないと怖いです (同じ性格なので気が合うとも衝突するともあるのでわかりません。もともと干支での性格判断なんてマ・ユ・ツ・バ?) 子供の多かったこの時代 このような冗談を平気で言ってたのかな

真田増丸先生のこと

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<2a-44-4> 大津屋の二階に間借して裁縫して 佛教大学 (*1)を卒業させて下さったお母さんの元に 意気揚々と帰ってきた増丸先生に お母さんは卒業証書を引き割いて 「大学卒の真実の尊敬を受けるのは この後の働きによるのです」 とさとされたという 私の知った頃は 済世軍というのを興され たった一枚の墨染めの衣にドタ靴 かすれ声で布教していらした 先生臨終の時は トラックの運転手が済世軍本部の前後一丁に筵(ムシロ)を敷きつめ 枕元に響かないようにしたとかきいた あの頃のトラックの運転手は 蛇かなんぞのように怖れられたもの よくもああまで布教されたものとおもう (*1) 卒業は佛教大学ではなく東京帝国大学という 《メモ》 真田増丸(さなだ ますまる)明治10年~大正15年 大正4年大日本仏教済世軍を設立。 北九州の八幡に本部を置き労働者層への布教活動をおこなった方です。

昔の唄

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<2a-42-1> 1.上には万世一系の 君を戴き奉り    (以下略)     ・     ・ 此頃アニマル日本といわれるので昔の唄をちょっと 《凡人雑感》 替え歌の様ですが、何時の頃だれが作ったのやら。 亡母は歌が好きで古い歌、童謡、そして軍歌までなんでも歌っていましたが この歌は聞いたことがありません。 1番、2番が元歌の歌詞だと思われます。 その内容は大日本帝国讃歌調! 「下には七千有余万」とあるので昭和の初めころの歌のように思えます。 ですがど~もよくわかりません。 3番以降になると一転して皮肉調 ここからは替え歌になっているようです。 でも戦前や戦中には歌えそうもない内容の様な気がします。 …内容が「反戦・平和」でないから大丈夫かもしれませんが… アニマル日本(エコノミックアニマル)が流行語になったのは1969年(昭和44年)頃だったそうです。 それこそ昭和40年~50年頃にもっとも合ってそうな内容に聞こえます。  そういえば『昔の唄をちょっと・・・』と言ってるのでもしかして!? いえいえ  結局よくよくわかりませんでした。 (※著作権が気になるのでテキスト化はしていません。)

豆腐屋と千両役者

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<2a-39-2> 昔 五座 (*1) の近くに水質のよい井戸を掘り当て 豆腐屋を開業 繁昌している夫婦があった 八方 (*2) を灯して朝早くから豆腐作りに精を出していると バタバタと 駆 けてくる ただならぬ足音 と思うと 灯りがもれたのか「助けてくれ」と飛び込んできたのは今をときめく千両役者 芝居のはねた後 着替えをすませて淋しい夜道を帰る中 物騒な男に襲われたらしい 命を助けてもらったお礼に役者名を付けた饅頭を売り出すことを承知したので ますます繁盛したそうな その役者の家に 正月になると花籠をもらいたさに 母は年始に行ったそうな 若い日の母にもそんなほほえましい日があったという (*1)五座=道頓堀五座     (戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のこと)  (*2)八方=八方行燈=八間:平たい大型の掛行燈 《メモ》 「母」とは私の祖母のことで明治元年生まれ。 大阪城大手門前で袋物商を営む家に育ったとか・・・

人に物を差上げる時

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<2a-38-3> 人に物を差上げる時には「 お口にあいますかしら 」と云うように母から教えられた 「 お粗末なものですが 」と決して云わない様に 好き嫌い 甘口辛口等 口にあうかあはないかはわからないが  粗末な品は人には差上げない様 又食べ残しも差上げるものではない と教えられた 《巷の凡人雑感》 これは塩月弥栄子の「続冠婚葬祭入門」にも同じように「贈り物をするときは『つまらないものですが』と言わない」とありました。 さらに「表書きにも『粗品』はやめたい」とあります。 納得です🙆

口と尻、軽いと悪いのはどちら?

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<2a-38-2> 軽いものに「口」と「尻」がある どちらも悪いものの代表だが どちらが罪が大きいか 母は「口」だという 「尻」が軽いのは或る程度本能のはたらきだからだそうだが  「口」が軽いものは人を殺すこともある怖しいものであるという 《雑感》 同感です🙋

舟山に登る

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<1b-35-4> 「舟山に登る」とは田子の浦にうつる富士の山陰に 舟を漕ぎよせるのを言うそうですが ほんとに舟が山に登るのを見た母はびっくり 幾回も大蔵川の大岩でダイナマイト爆発の稽古をして  官舎の屋根瓦を割ったり  赤旗を立てゝ通行を遮断したりした後 河内ダムが出来上がり  満水したので警備や救助の為の舟がトラックに積まれて登ってゆく 「 世の中変わった 」 永い事母の口癖だった 《わたしのメモ》 北九州市八幡東区にある河内ダムは八幡製鉄所(現新日鉄住金)のダムで1919年(大正8年)に着工、1927年(昭和2年)に完工しています。 製鉄所の大蔵の官舎に住んでいたので、工事の様子をよく見ていたのでしょう。 ダムの下流は大蔵を通りますが、板櫃川(いたびつがわ)となっています。 しかし別名「大蔵川」とも言うようです。 「舟山に登る」は 一般的な故事諺の「船頭多くして船山に登る」と思いますが ここでは違うようです。 それにしても当時の大工事だった様子がわかります。 下の写真は1971年8月頃の河内ダム。 石造りのダムが綺麗です。

洞海湾一周

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<1b-34-4> 若松は島郷と言われてもわからなかったが 一周して初めて田圃の中の小川と思ったのに 干満があり 船が帆かけて航くので理解出来た そう 陸続きでなくて島郷だった 《凡人メモ》 昭和40年年代(六十歳代)の頃だと思います。 ワンダーフォーゲルに参加して若い人たちに交じり「戸畑-若松-脇ノ浦-脇田-岩屋-あま住-浅川-折屋」など約40キロ程を歩いた時のことのようです。 これが自慢で、島郷の話と共に何度も聞かされました。(^^ゞ 他に島郷の提灯山の話もよくしていました。 夜の田圃の水に映ってとても綺麗だったとの事。 小石の提灯山笠 については戸畑の提灯山と同じ姿のようですが、島郷の山笠はどんな姿だったのでしょう?

直江山城守の出世

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<1b-34-3> 一城の主は何万石と呼ばれる者から 下は何人扶持 (*1) と云はれるのは 食禄 (*2) といい徳川時代の経済改革 直江山城守が武功によって侍分から一城の主に出世したら 妻がびっくり この後どうして沢山の米を精白しようといったそうな (*1)扶持(ふち):棒禄を給して、家臣としておくこと (*2)食禄:知行、扶持 《凡人メモ》 *昔の笑い話ですね😁

お台場の石運び

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<1b-34-2> 「お台場の石運び むこうで飯(ママ)食(ク)うて二十三文」 これは維新の少し前 東京湾品川沖にお台場建設に続いて神戸にもお台場を作ることになり 全国から人夫が集められた時 仕事唄として歌われたそうな 亡母が梅川忠兵 (*1) の使い果 し た(?) 四五十両や 芋一貫目二十四幸(文)等と共に歌はれた時代の経済を知る参考になるからと話してくれました (*1)梅川忠兵: 👉 梅川忠兵衛 《メモ》 私にはさっぱり『 この時代の経済を知る参考 』にはなりませんでした(^^ゞ 神戸市兵庫区のページの『和田岬砲台』には   元治元年(1864年)大阪湾岸防衛のため、勝海舟の設計で完成したもので国の史跡に指定されている。 中央に石堡塔という丸い砲台があり、直径 12.12メートル、高さ10.60メートル、砲門11カ所となっていた。  当時は「お台場」といわれて、人々に注目されていた。  大砲はすえられることなく終わった。 と紹介されています。このことみたいですね。 「梅川忠兵衛」を題材とした人形浄瑠璃の演目『冥途の飛脚』(近松門左衛門作)のことも話題にはいっているようですが・・・  私にはよくわかりません。

月日の経つのは早いもの

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<1b-33-2> 「歯のないお母さんに食べさせるんだから硬い沢庵丁戴」  と云って店頭で「この親不孝者」 と叱られたのはついこの間の様な だって 硬くないと卸金にかからないので仕方がない 馬鈴薯も卸して団子に丸めてすまし汁に浮ばせると又変わった料理になるし 蓮根も牛蒡もこうして他家にはないものを食べさせました そしてお金がもったいないと云う母に 三日しきゃ食べなかったとしても噛んで食べるように勧めて 義歯をいれさせたのは昨日の事の様です 七十六才で死んだ母の年にもう手がとどく程に私も老いた 月日の経つのは早いもの 《雑感》 これは昭和54年春の頃書いたものだと思います。 まだ71歳だったのに・・・ この当時は病気で体力が衰え、体も少し不自由になり始めていました。 ユーモアを交えて書いているものの、少し弱気になっている様子。 私も歳をとって同じような気持ちに向かっているような気がします😞

お話の小父さん巌谷小波先生

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<1b-32-3> 北九州市八幡区(以前の八幡市)の大蔵電停前に日鉄の養成所 (*1) という建物がある 此処に大正六年か七年頃 巖谷小波 (*2) 先生の講演会があって その頃少女の友の愛読者だった私は 首を長くしてその日を待っていた ところが生憎四五日前から体の調子が狂ってしまい 医師の往診を求める羽目になって当日になった そこで一計を案じて 体具合がよいので通院して来る と嘘を云い医院の前を素通して会場にむかった 母は帰りがおそいと医院に尋ね 来ていない事を知ると心当たりを探し歩いた 大騒ぎになっているとも知らず してやったりと得意満面で帰ったのに一度でペチャンコ どんな話をきいたのか肝腎な事は忘れて 大目玉食ったのだけはっきり憶えている テレビ放送で お話の小父さん巌谷小波先生を見て (*1)日鉄の養成所:昭和30年代には八幡製鉄所の大蔵教習所がありました。         現在はマンションなどが建っているようです。 (*2)巖谷小波:いわや さざなみ         1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9 月5日)は、        明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。        (Wikipedia 2020/01/03) 《メモ》 「少女の友」と巖谷小波の接点はよくわかりません もしかして「少女世界」かな?

入院中の病室の窓から

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<1b-32-1_2> ねえねえ あの向う岸の男性 もう長い事川の流れをしゃがみ込んで見てるのよ 身投げするには川は浅いし 上水道も断水する程水涸れの年だけどあゝして長い事居ると気になるのよ 人通りの少ない川端で何の為にあゝしているのかな 気にかかる人だな あゝ彼女と待合せていたのね 病室の窓外も退屈しないものね と隣のベッドより声あり 国道三号線から町道に曲った所の淋しい場所に 工事会社の事ム所があるのでトラック等の駐車場とされる空き地がアッケラカンと広がっている 朝は事ム所も多忙だが 私達こちらの川岸の病院も 検温だ 朝食だ 点滴だと窓外を見るひまはない 夕方 見舞い客も来ないし 退屈になった頃 工事々務所に人が集まり始め トラックと崖の間の狭い空地に男が五六人並んで立つのを不思議に思って目をこらして見つめたら アッ 病院の窓からま正面に 立ちション 川に向かって 《メモ》 昭和53年(福岡渇水の年)のころの入院中の病院の窓からの眺めです。 病院の前を流れる川、とても入水自殺できるような川ではありません😜 そして 昔はよく見ていた「立ちション」も最近はさすがに見かけなくなりました。 ・・・と思ったら 私も数日前、団地の公園の隅でオジサンの立ちションを始めました。 私は犬の散歩中なので気づかないふりをして通り過ぎようとしたのですが オジサンあわてて~  歩き始めたようです。 『大丈夫だったのかな ズ・ボ・ン』

櫻井忠温の「肉弾」を読んで

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<1b-29-3> 教育テレビによると櫻井忠温の「肉弾」は明治のベストセラーだったらしい カーキ色に赤い縦線のはいった歩兵が書いたとすぐ分る装丁で 割合小型だったとおぼえている 家族の誰が買ったのか 本箱から引き出して来て 小学四・五年頃読んのではっきり思い出せないが 戦争ってむごいものと思った そして梅谷さんて方の二〇三高地の話(少尉で従軍し手に弾傷の跡) 父が日本海々戦砲声におびえつゝ 帆柱山 (*1) 中に逃げた話 父だけ赴任して母は大坂に在り 護送された将兵の為 蚊帳を縫ったとのこと 大きな蚊帳は軽傷兵の為なのでペチャクチャと私語しつつ縫ったが ひとり寝の小型は 重傷兵に使われるだろうと皆しめっぽい思いで縫ったとのこと 文楽の呂太夫さんが…(途中判読不明)…友達に細君を***時 大層ニュースになったとかで 戦勝祝いの旗行列にのしを背につけた仮装が人気を呼んだ話も事のついで話していた 又 野中校長 (*2) が五月二十七・八の海軍記念日は絶対あしや行きの遠足だったし 話は はずんで母の十才の西南戦争にまで及び 中津から船で大坂の安治川に着き 村田蔵六 (*3) によって整備されたのちの赤十字へ収容された由 担架ではこばれる者 人の肩にすがる者 杖でゆく者 その姿は十才の母に強く残ったらしい (*1)帆柱山:北九州市の帆柱自然公園の一部。      子供の頃は皿倉山や権現山も含め全体を帆柱山と言っていたことがある。 (*2)野中校長:亡母の通っていた大蔵尋常小学校の校長。 (*3)村田蔵六:大村益次郎。       たしかに日本赤十字社は西南戦争を機に創立したようですが、        村田蔵六との関係はわかりません。亡母の記憶違いかな? 《メモ》 この文は昭和53年、亡母70歳の頃のもの。 教育テレビでの番組『櫻井忠温の「肉弾」』を見て、昔両親と戦争の話をしたことを思い出したようです。 亡母の父(私の祖父)は文久2年(1862年)生まれ。 八幡製鉄所ができるとき大阪から来て八幡・大蔵の官舎に住んでいました。 日露戦争の日本海海戦は1905年(明治38年)5月27日-28日 八幡でも日本海海戦の砲声が聞こえたというのはびっくりです。 でも福津市の東郷神社のある大峰

外傷は気づかいしてくれるが…

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<1b-27-3>   呼吸(イキ)すれば    胞の中にて鳴る音あり    凩よりも淋しきその音           石川啄木 倒れて頭を怪我した時 繃帯(?)を鉢巻みたいに巻いてバスで通院したら 老人だから余計目立ったのか 見知らぬ人にまで声をかけられた 小さなキズなのに人目を引いて面映ゆかった 目が痛んだり腕が痛んで夜もねむれぬ程苦しんでも 人目にはつかないので分らないらしい    外傷ならと 思う痛みや 青葉かげ 《メモ》 私も歳をとったが周りには元気に見せたいと思う。 他の年寄りより若く見られたいと思う。 かと思うと 衰えた体を労わってほしい、  ねぎらってほしい   同情してほしいとも思う。 何なら憐れんでほしい・・・😞 なんと老人とは身勝手なもの? でも、通院する病院の待合室で 「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」 なんてことわざか格言が貼っていた。 なるほど、納得!! (特に 年寄り のところは・・・) これはあちらこちらに貼っててほしいな~ そんなことを思いだした正真正銘の老人です。

友達っていいな

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<1b-25-3> 友達ていいな 入院中は四人部屋だったので いつも賑やかだった 一人部屋の人が羨しがって よく話の仲間にはいりに来たものだった 点滴さへなけりゃ もっと入院していたかった 《メモ》 エッ!もっと入院? 確かに賑やかな方が断然好きだったけど・・・

大好きな話

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<1b-13-1> 大好きな話 息子に嫁を貰ったそうな 幾年月が経つうちに嫁の実家の家運がかたむき家計が不如意になった時 嫁はゴボー一本 葱四五本と姑や夫に内密に実家へはこぶ小さな秘密を作ってしまい 之を小姑に見付られ 姑に耳打ちされてしまった 姑は腹を立て 嫁を究明すべく友達に相談に行った 友人曰く 嫁を泥棒とよべば どういう事になるか 世間の人はあそこの嫁はどろぼうそうな そんならそんな嫁をもらったあそこの婿もお姑さんも同じようなムジナぢゃなかろうなと あんたの値打も下がろうばい それより 私は年ばかりとっても気のつかん事ぢゃった 実家の事を気遣う気持ちを察してやれないで済まんじゃった といって 買い貯めてある砂糖1K 着なくなった服一枚持たせてやったらどろぼう嫁ぢゃあるまい あんたの気持ち次第ぢゃがどうな と話したそうな お姑さんも親友の苦言に そうぢゃ そうぢゃと丸くおさめたそうな それから又幾年か過ぎて 嫁の実家は昔以上に栄えて 世間の人に あちらの家も こちらの家もよい家ぢゃと羨ましがられるようになったそうな めでたし めでたし (西村の姉娘より聞いた話)