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7月, 2015の投稿を表示しています

父ちゃんは箪笥も長持も皆呑んで死んだ

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<4-29-1> 父ちゃんは箪笥も長持も皆呑んで死んだの 子供達は父親の顔もおぼえていない と云ったら  そんなにお酒が好きだったのかときかれる 呑むのは酒ばかりぢゃあるまいし 薬だって呑むものよ 終いには鯉の生血をふるえふるえ絞って呑ませたのだった 命を助けたいばかりに 爆撃された八幡の街をバケツさげて鯉を求めて歩いて行けば 電車線路は目茶目茶 自動車も 馬車は馬もろとも焼け死んでいて 小伊藤山 (*1) まで来ると小伊藤山を掘り抜いた防空壕から死体が次々運び出されていて凄惨な光景 思い出しても背すじの寒くなるような中を歩いて行ったのだった (*1)小伊藤山の防空壕では昭和20年8月8日の八幡大空襲の際、      中で多くの犠牲者が出た所です。 《凡人の雑感》 父ちゃん(私の父)は製鉄所に勤めていましたが、病気で休むと亡母は八幡の本事務所に呼び出されたそうです。 そこには軍刀を持った憲兵が机に脚をのせて座り、その足の間から顔を出して--- 出勤させる様に云われたそうです。 病気だからと云っても聞き入れてくれなかったそうです。 結局、無理がたたったのでしょう。 終戦の翌年の昭和21年に、肺の病気で亡くなっています。 私が3才になる少し前、姉は8才でした。 この本事務所での体験はずっと腹に据えかねていて  その後何度も腹立たしそうに話していました。 「大の男の兵隊が、女相手に軍刀もって脅すような・・・威張り散らして・・・」 兵隊さんが軍刀を杖の様に持って椅子に座るのは、記念撮影のためだけではなかったのです。 こうして相手を威圧する道具としても使っていたようです。 でも、 相手が女でも? …この態度は… もっとも私の現役時代でも、仕事がうまくいかないとき 「死ぬ気で頑張れば不可能はない」 みたいなことを言う上司もいましたからね。 時代も変わり、プレッシャーを受け止めないようにする術を知ってましたので、ほぼ無事に勤め上げました。 でも、もし上司が軍刀を持っていれば・・・即座にひれ伏し従っていたでしょうね。 「 こんな時代に戻りませんように 」

押しくら饅頭

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<4-22-2> 押しくら饅頭 ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せ みんな押せ 押したら寒さが逃げてくぞ 寒さが逃げてって 体がぽかぽか 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したら弱虫泣きだすぞ 弱虫泣きだし 泣けべそとびだす 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したら饅頭つぶれるぞ 饅頭がつぶれて あんこが飛び出す 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したらおにぎりつぶれるぞ おにぎりつぶれて梅ぼし飛び出す 《凡人の雑感》 子供の頃遊んでいた『おしくらまんじゅう』の歌ですね 当時の冬の暖房はこれしかなかった…ですね。 歌詞はネットで調べると いろいろあるようです 地方や時代で違っているのですかね。br> ネットで調べても此処に出てくる歌詞は見付けられませんでした。 この歌詞は亡母が記憶の中から書きだしたものか それともどこからか書き写したものかわかりません? (表現に少し方言が混じっているようなので実際に歌っていたものと判断しています) 次の歌詞が一般的の様です  おしくらまんじゅう 押されて泣くな、  あんまり押すと あんこが出るぞ  あんこが出たら つまんでなめろ 私の子供の頃(昭和20年代)はただただ 「押しくらまんじゅう!押しくらまんじゅう!」 と怒鳴っているだけだったような気がします。 『愛想もくそもない』ってとこですかね。 古い楽譜帖にはこんな歌もありました 👇 画像をクリックするとYouTubeへジャンプします

戦時中、伝令を仰せつかったが

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<4-20-2> 戦時中の婦人の生活 という放送があった あの頃 私は伝令を仰せつかり 赤ん坊だったK子を背に走りまわっていた 伝令は毒ガスの落ちた道もあるだろうと防毒面が支給されたが 背中の乳児は無防備のまま たまりかねて乳児用を請求したら乳児用は無いという 産めよ殖やせよはかけ声だけかと くやしかったな  《凡人の雑感》 この話、よほど悔しかったとみえて二度目です。 (2014年11月15日投稿の 「子供の誕生と戦争の進行」 にも出ています) 防毒面は結局は防火演習用だったみたいで、  その後の実際の空襲が始まると無用の長物だったとか。 バケツリレーなどの防火演習も絨毯爆撃の下では役立ちそうもありません。 戦時中は戦争に勝つためのスローガンが沢山あったようです。 戦後派の私も知ってるスローガンなどは 「欲しがりません勝つまでは」・・・勝つ保証があれば? 「ぜいたくは敵だ」・・・・・・我が家では今でもこの精神です 「進め一億火の玉だ」・・・・今の時代ではちょっとしんどいかな? 「月月火水木金金」・・・・私だって現役時代はこんな仕事ぶりが少しあったかも 「本土決戦」・・・・・・いやです! 「鬼畜米英」・・・・・せめて近隣諸国とは… etc. そうそう 近年の少子化問題で見つけたのは 「パパが産休、家族にサンキュウ」 「産めよ殖やせよ国のため」  みたいに指示・命令的ではないようです・・・ネッ!

八幡さまと鎮守さまの思い出

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<4-19-2> 八幡さまの方は神主さんが常住していたが 鎮守様の方は無住だったので 乞食が拝殿に住みつき 時折 八幡さまの神主さんに追い立てられて逃げていく その鎮守さまは石段もなく子供達の恰好の遊び場で ハンモック吊って昼寝したり 湧き出る泉に足を浸して涼んだり 夏休みはよく行ったもの 又おまつりの夜は禪宗坊主の行列にさしかけるみたいな大きな傘さしかけ (*1) や 飴屋やお面売りの屋台やが十軒程細い野道の両側に並んでいた あんな時代もあったのにな (*1)傘さしかけ:⇒「差し掛け傘」の事かな? 《凡人の雑感》 大正時代で現在の八幡西区大蔵にいたころの話でしょう。 八幡さまは『乳山八幡神社』、鎮守様は『勝山勝田神社』のことだと思われます。 ただ「鎮守さまには石段もなく…」と書かれていますが、地図を見ると長い石段があるように描かれています。 もしかしたら鎮守様は別の神社かもしれません。 私の古い思い出の中には、何の変哲もない日常の小さな出来事が何故か記憶に残っているものがあります。 幼いころの、あまりにも平凡な出来事なので、本当の話なのか、それとも大きくなって誰かから聞いた話なのか判断が付きません。 (もしかして夢で見たことなのでしょうか?) 今となっては確認しようもないそんな出来事が、かえって何か気になっているこの頃です。

姉と私の着物の仕立寸法の違い

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<4-18-5> 神戸の姉の着物は普通の人の仕立て寸法と違っていた 七、五、三、の五分まわしと云って 後巾75分 前巾55分 衽巾3.5分に縫い 小股の切れ上った女 (*1)  即ち粋な女といはれたくてしょうがなかったらしい 私は身長が低いので袖丈1尺五寸 羽織丈2尺2寸に縫い 小女 (*2) といわれないように心がけた (*1)小股が切れ上がる:婦人のすらりとした粋(いき)なからだつきをいう (*2)小女:こおんな。      ①幼年の女。少女。②小柄の女。③年のゆかぬ女中。 《凡人の雑感》 『神戸の姉』というのは明治三十年生れで亡母より十才年上です。 やはり粋な女が理想だったようですが 小柄な亡母としては少し羨ましかったかもしれません。 効果は出ていたのかな~ 残念ながら男の私では・・・ 着物に関しては何を言ってるのさっぱりかわかりません。 小数点も抜けているかもわかりませんし、写し違いもあるかも知れませんね。 <m(__)m>

日本坂トンネル災害

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<4-16-4> 日本坂トンネル災害 (*1) 二年とのことで小仏トンネルで訓練があったらしい 戦時中の訓練で 目の怪我 と書いた札持った人を担架で運んでマイナス点もらったと笑って話していたが  そうよね 火事の時「私の家が火事」と電話口で消防署にどなるだろうと人の事は笑えない (*1)日本坂トンネル火災事故:1979年(昭和54年)7月11日     東名高速道路の日本坂トンネルで発生した火災。     7名が死亡し、加えて2名が負傷。173台の自動車が焼失     日本の道路トンネルにおける火災として史上最大規模の事故・・・。 《凡人の雑感》 これは昭和56年(1981年)に書かれたものです。 明日(2015年7月11日)で事故から36年となるようです。 同じ年の3月28日にはスリーマイル島原子力発電所事故が発生しています。 当時 大事故と認識していても、自分には関係ないと感じていました。 マイカーを持たないので高速道路の事故は他人事だし 原発の事故は日本ではありえないように云ってた人もいたし。 どの事故もそうですが、大きな事故には必ず設備や判断ミスなど様様な要因が重なっているように思います。 人間の判断力は別にして、せめて 「防災設備が機能しない、無力だった」 なんていわないで! なにとぞ過去の事故・事例を教訓にして安全を確保して戴きたいもの。