投稿

2015の投稿を表示しています

空襲にも慣れた?

イメージ
<4-98-3> 薬莢がカラカラと音を立てて屋上をころがると拾いに飛び出す男の子 電柱を楯に飛行機の通路の目測し 女だてらに上空は免れたと嬉ぶし あの音は蚊トンボだ あの音はB29だと聞きわけたもの

こんな戦争になるとは

イメージ
<4-98-2> 日清 日露 一次大戦は万歳 万歳で兵士を送り出し 万歳 万歳で迎えて終った 戦争とはこんなものと二次大戦開始を思っていたら 敵機が頭上を飛び交い 戦々恐々 夜もおちおち眠れない サイレンに怯え 爆撃におののき 夕方皆で食卓をかこんで無事を確める 朝は勤めに学校に行くのを どうぞ無事に帰ってと 一日一日の命を預って生きた こんな筈ではなかったのにと思った時はもうおそい 《巷の凡人雑感》 もちろん 日清戦争は明治27年-明治28年、日露戦争は明治37年-明治38年で 亡母が直接経験したわけではありません。 でも両親からは何度も話を聞いてたようです。 第一次世界大戦への日本の参戦が大正3年、そして終戦が大正7年。 この頃には10歳を過ぎています。 その後結婚し、長女(私の姉)を出産した昭和12年頃には支那事変から太平洋戦争へとまっしぐらです。 最初の頃はまだまだ 万歳!万歳!万々歳!だったのでしょうね。  でも・・・  やがて・・・

江戸から東京へ

イメージ
<4-79-6_> 六十年近く昔になるであろうか 「江戸から東京へ」という本を読んだ事がある  幕政時代から明治の文明開化期へかけての推移を女の目で書いている  その中に買物控えは筆者の 筆に書き止めたのだったから 面白く 後に私も出納簿をつける原因ともなった  又 亡母が  「お台場(東京の次に神戸に作られた砲台場)の石はこび むこうで飯 (まま) 食うて二十三文」 とか 「芋々々々芋やさん お芋は一貫なんぼぢゃえ 二十四孝でございます 十六羅漢にまけしゃんせ アカベ」 なんて教えてくれたりで楽しく学んだもの 今日 消費センターからパンフレットを見たので 《巷の凡人の雑感》 六十年程前(大正後期)の『江戸から東京へ』は誰が書いた本なのかわかりません。 『お台場の石運び』は2014年8月27日の「( お台場の石運び )」にも書かれています。 土方仕事が食事付きで23文 芋の一貫(3.75Kg)が24文 それを16文に負けろと云ってるのかな (?_?) で、これらから 昔の貨幣価値が学べるといってるようですが… (p_-)

求菩提で即身成仏の行に入った人

イメージ
<4-78-5> 昔の武士には切腹という刑執行の方法があったそうなが 介錯する後見がいたという 乃木将軍夫婦だけは おのおのひとりで死んだという 旅順開城の唄はよくお手玉繰りながら唄ったあの中に  死所を得たるを嬉べりの句がある けふ四日 求菩提山で即身成仏の「行」にはいった人がある 《巷の凡人の雑感》 歌は『水師営の会見』ですね。 歌詞の6番に 『二人の我が子それぞれに    死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目』と 大将答力あり とあります 即身成仏の話は 求菩提山 龍王院の住職(大行満) 山田龍真が 昭和57年4月に求菩提山7合目 七日間即身成仏行(土中行)を行った時の事の様です。 これは悟りを開いて仏になることで 即身仏(ミイラ)とは異なるそうです。 当時、私も「即身成仏=ミイラ」になろうとしていたと勘違いしていました。 亡母も同じ心配をしていたのではないでしょうか? そんなことから乃木希典殉死(切腹)や 水師営の会見の歌の『死所を得たる…』が出て来たと思います。 大正時代のお手玉の唄は『水師営の会見』だったのですね。 私の子供の頃は別の唄でしたが、まだ戦争中の唄(みたいなもの)であそんでいたようです。 写真は1965年頃下関の乃木神社で撮ったものです

漢口で終戦を迎えた直太朗さん

イメージ
<4-77-4> G. 直太朗さんは 漢口で終戦そうな 上海目指して旅立つ日 支那人が何人もやってきて 干し飯だの干し果物だのを持ってきてくれ  どこそこには誰々が居るから頼れと言ってくれ うれしかったそうな 人柄だな 《凡人の雑感》 漢口から上海まではかなりの距離があるようです。 引揚者の皆さんは大変苦労して本土に戻ったようです。 このかたは無事に戻られたので、こんな話が聞けたのでしょう。

母と大宰府に行き玄昉の墓を見つけた

イメージ
<4-76-2> 若い頃 母に大宰府を見せたいと天満宮 都府楼 観世音寺と回り歩いた折 玄昉の墓を見付けた 玄昉とは何をした人だろう これを知りたいと尋ねたが誰も知らない わづかに岩波から発行された本があったが廃刊になったと知る その後まつかぜ荘で松本清張の書いたものを読んだ丈け 磐木(磐井)の乱は古事記のどこいらだったかと 中程から読みだし最後の頁にたった一行出ていた あの本もいつ失くしたのかな 《凡人の雑感》 玄昉の墓は 「大宰府マップ(大宰府観光協会)」によれば以下の通りです。 『僧正玄昉の墓』は 奈良時代、遣唐船で中国に渡った有名な僧の墓 観世音寺境内の北西には、僧玄昉(げんぼう)の墓と伝えられている宝篋印塔がある。 玄昉は奈良時代の僧、阿倍仲麻呂、吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ、紫袈裟を許された。 帰国後、奈良の宮廷で権力を振るったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。 政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられている。 それから 松本清張『眩人』(1980年、中央公論社)は  玄昉をモデルにした歴史小説だそうです。 それで 当時の玄昉の墓はこんな感じだったようですね  これは当時の『大宰府地方名所名刹共同編輯發行』の『大宰府まうで』からのものです。 また、古事記で磐井の乱についての記述は継体天皇の所の最後の個所に、確かに有りましたが これを見つけるのは結構な努力が入りましたよ~ 工業高校出身の私としては全く解読できない文ですね。 でも、これを機会に古事記も読んでみたいと思ってます。 ところで 玄昉と磐井の乱、どう結びつくのかはわかりませんでした

買出し

イメージ
<4-75-2> <4-75-3> <4-75-4> ここ 宗像 も芋の買出しに歩いた所 原町 入免 (イリメ)  王丸と軒並みに頼んで歩いたとタクシーの運転手さんに話したら あの頃は大変でしたでしょう  でもあの頃と関係ないみたいに立派な街になったでしょうと笑っていた 赤間駅に経済 (*) が出ていたら国道3号を海老津まで歩いた トンネルの上の峠の茶屋までの登りを   K 子  T 彦  K 子  T 彦と子の名をよんで登るので有名になってしまった 下ると川を渡り 土堤をよぢ上り  まっ暗な中を駅のホームの裏口で列車を待つ 老人ホームの J 野さんに 「芋の買出しに追っかけてきた巡査ぢゃないだろうね」 と云ったら 「かもね」と冗談が返ってくる平和な時代 有がたい 《 凡人の雑感》 私は終戦の年はまだ3才未満。 戦後いつ頃まで買出しに行ったのかは知りません。 赤間駅から海老津駅までは7.1Kmほど。 親は買い出しの荷物を持っているので幼い私も自分で歩くしかない? 小さかったので必死で歩いていたのでしょう。 親が後ろを振り向くと私が居ないのであわてて探したところ、泥だらけ(もしくは灰だらけ)になって土手の下に落ちていたそうです。 私が大きくなったころ、笑い話としてよく話していましたね。 経済とは経済警察。 当時、食料は配給制度だったので、闇屋や買い出しの取締をしていたようです。 捕まれば元も子もないですね… 戦中・戦後にかけて、我が家は次々と家族が亡くなり、母子3人の家庭になってしまいました。 周りの人が、「次はこの子だね」と私の事を云ってたとか・・・ それでも生きてこれたのは、買い出しのおかげだったのでしょうか…

戦争は悲しい思い出ばかり

イメージ
<4-74-7> 悲しい終戦時の思い出 うどん玉を鷲づかみにして食べたが飢えがひどくて胃が受付けぬらしく 全部吐き出していた人や  寒さと飢えで断末魔の痙攣を起していた子を 手の施し様もなく見守っていた日 寒中訓練の途中 道路にしゃがみこんでしまった子を叱る教師に思はずくってかかった思い出 買出しに行った中津駅で食事を抜いた子に持っていた弁当を食べさせてしまい 今度は自分が困っていたら 後を追っかけておにぎりを持ってきた見知らぬ女の子の有がたかったこと 戦争は悲しい思い出ばかり 《雑感》 内容の一部は既に出ていますが、戦争中の悲しくいやな思いがいつまでも強烈に残っているようです。

暑さ寒さも彼岸まで?

イメージ
<4-73-6> 「暑さ寒さも彼岸まで」と云えば 「いーえな 寒さの果てはおしょうらい (*1)  天王寺のおしょうらいが済むまでは油断がならない」 と大坂弁で答える母 おしょうらいとはどんな御供養なんだろう その後 「井伊かもん (*2) さんには雪が降った」 井伊掃部(イイカモン) と桜田門の事変を云って ひなまつりが済むまでは寒い日もあるという 《凡人の雑感》 「おしょうらい」と書かれていますが ここでは云うのは聖霊会(しょうりょうえ)のことのようです。 これは 聖徳太子の命日、旧暦2月22日に聖徳太子の御霊をなぐさめる為に行われる大阪の四天王寺の行事だそうです。 井伊かもんさんのことは 安政7年3月3日(旧暦)に江戸城桜田門外で大老の井伊直弼が暗殺された事件のことで 当時、季節外れの雪が降っていたといいます。 掃部頭[かもんのかみ]」という名前は、井伊家の殿様が代々使った名前だそうです。 「昔、子供の頃は雪が多かったね。最近はいっちょん降らん。」 「やっぱし温暖化の影響かね」 なんて我々年寄り同士で話していますが、最近は4月に関東で雪が降った話もときどき聞きます。 そして今度は「寒冷化」なんて言葉を聞く様になりました。 今度は寒冷化対策も必要になってくるのでしょうか。 うーん、どっちなんだ?

12月1日は乙子の朔日

イメージ
<4-71-4> 12月1日は乙子 (*1) の朔日 (*2) と云って末子の為の雑煮を祝っていた 妹が生れてから乙子でなくなったので末子の正月を指をくわえて羨み ぢっと我慢したもの 我慢することはこんな風にして教えられた   鼻たれも 次第送り (*3) (*1)乙子:おとご。      末に生れた子。末子。おと。 (*2)乙子の朔日:おとごのついたち。乙子の祝。         旧暦十二月一日に行う祝。         この日、餅を喰えば、水難をまぬがれるという。 (*3)次第送:しだいおくり。       順々に送って行くこと。順送り。 ※鼻垂れ子も次第送り 《凡人の雑感》 我慢もなにも… 私は祝ってもらった記憶はまったくありません。(一一") 戦中戦後の子にはそれどころではなかったのでしょう。 そんな時代でなければ 私は末っ子なので、ずっとず~っと祝ってもらえるはずだったのに(´・ω・`) そういうわけで 乙子の朔日やおとごの祝などはじめて聞く言葉です。 昔は子供が無事生長するのは大変だったので 一年間何事もなく無事育ったことを祝っていたのでしょうかね

子供の頃の遊びなど

イメージ
<4-70-4> <4-71-1> <4-71-2> <4-71-3> 春の朝焼け傘を持て 秋の夕焼け鎌を研げ 朝の虹は隣の家に行く間がない 狐の嫁入りは雨のしるし 夕暮れ近くになると明日の天気を下駄占いしたり 雀や鳩が見えなくなると雨 鳶の声が聞えると雨 叔母心と春の陽は呉れ(暮)そうでくれぬ 秋の陽は釣瓶おとし 叔母家にかかるより 秋山にかかれ 子 とろ 押しくらまんぢゅう ほたる狩り せみとり とんぼつり こうもり落し よめな菊の花ビラで吉凶占い むぎ笛 草笛 椎ノ葉笛 そら豆ほうづき ごむほうづき ほうづき 山桃の枝は折れ易く枝もろとも谷へ落ちたり 椿は折れにくいが無果実は裂け易い へくそかずらの生い茂った葉の上に脱皮した蛇の皮が白く長々と横たわていて これをお金入れに入れておくと お金に不自由しないと教へられたが 無 気味でしなかった 蛇は道を横切る にらみつけているとどくろ (とぐろ?) は絶対に解かない 冷血動物てほんとだ 冷やっとすると同時に寒気がする 思い出すままを書いてみたがよくもいろいろ遊びをしたものだ  まだ歌につれて遊んだものやゴム毬 お手玉 竹串 小石 棒切れ をおもちゃにしたもの  炭俵で草スキー 水鉄砲  思い出したら際限がない  まことの本をみたので書いてみた メンコ遊びは小学一年になったら止めなきゃと云はれたので 3月31日の夜はおそくまでメンコをヂャラヂャラと思いっ切りもて遊んだ  父も母も最後だから思う存分遊べとゆるしてくれたし いい思い出だ 《凡人の雑感》

子供の頃のあそび

イメージ
<2a-48-3> 花占い (*1)   疊算 (*2)   オカメフ (*3)  子供の頃こんな遊びもしたもの なつかしいな (*1):花占い:「好き、嫌い、好き…」の女の子の遊びでみたいですね。 (*2):疊算:「かんざしなどを畳の上に落し、その落ちた所から畳の編み目を端まで数えて、その丁・半で吉凶を占うもの」【広辞苑第2版】    私の子供の頃には知りません (*3):オカメフ:これは私も子供の頃も遊んでいた『オナベフ』と一緒かな? 《凡人の雑感》 亡母の子供の頃と云えば大正時代 疊算などはかんざしをさしている頃の遊びだったのでしょう。 当然私は知りません。 私の子供の頃は昭和20年代 オナベフは遊んでました。たしか手首から二の腕まで指で測ってたと思います。 じゃんけんで階段などでの遊びは今でもたまに見かけます。  グーはグリコ  チョキはチョコレート  パーはパラシュート 冬には「オシクラマンジュウ」「トビウマ」「ケリウマ」「Sドン」「カンケリ」etc. ゲーム機などなかった時代、こんな単純な遊びで楽しんでいました。 「パッチン」「ランチン」なんてのもあったけど私は持っていなかった😞 遊びじゃないけど思い出した・・・ 『紙芝居!』 飴を買う金なんて持ってなかったが 追い払われるわけでなく、しっかり見てました。 でも、「買った子が前よ!」と後ろにやられていたっけ 子供ながらにそのルールをちゃんと守り(?)、初めから後ろで観るようにしていましたね。

志賀島へ新船が就航予定

イメージ
<4-66-2> 「伊勢に詣らば お志賀にかけよ お志賀かけねば片詣り」 昔 伊勢まいりした折 古老が伊勢音頭でこう教えてくれた その志賀島へ新船が就航予定という 《凡人の雑感》 伊勢音頭の歌詞と云えば、まず 「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」 のようです。 「伊勢参りに 朝熊(あさま)をかけよ 朝熊な~かけねば 片参宮」 というのもありました。 しかし「お志賀詣り」の入った歌詞はどこを探してもでてきません。 家にあった昭和16年頃の写真の中には 「男鹿まゐり」や「男鹿詣り」と書かれた写真が何枚かあります。 その中の写真には香椎駅や香椎宮、さらに伝馬船のような渡し船に乗った写真も含まれているので、そこは志賀島のようです。 その志賀島にある神社と云えば『志賀海神社』。 志賀海神社に参ることを『お志賀詣り』と言ってたのでしょうか? 志賀島に行くには、車で海の中道を通り志賀島橋を渡ります。 志賀島橋の開通は昭和5年か6年頃のようです。 そうすると写真の昭和16年頃は車で渡れるはずですが 車がまだ普及していなかったのか、戦争中の物資不足でバスが走らなかったのかで 船で渡っていたと勝手に推測します。 「志賀島への新船就航」とは 昭和57年に海の中道海浜公園の開園で就航した「パークライナー」ですね。 名前とは不釣り合いな外輪船のようなレトロな格好で、楽しそうですが、今では双胴型高速船が走っているようです。 パークライナー 一度この船に乗って志賀島に行ってみたかった

枕について

イメージ
<4-64-2> <4-64-3> 枕について 木枕は角材を切っただけ 棒枕は棒を何人かで共用 箱枕は塗枕に小さな引出しがついて枕草子なんかはいっていた ござ枕 陶枕 藤枕は夏季用 坊主枕は髪のみだれの心配のない坊主用 娘の頃 桃われ (*1) や結綿 (*2) に髪を結いあげると箱枕になる 横臥して耳たぶの近くにあてがうが首がしびれて  朝 首がまわらなくなり困った思い出がある (*1)桃割:ももわれ。      女の髪の結い方の一。十六、七歳位の少女が結う。      左右に髪を分けて輪にして後頭上部で結び、鬢 (びん) をふくらませたもの。      明治・大正期に行われた。 (*2)結綿:ゆいわた。      島田髷 (まげ) の一種。      つぶし島田の中央を布で結び束ねたもの。 《凡人の雑感》 枕の種類をいろいろとあげてますが 正解なのかどうかは私にはわかりません。 それにしても 昔の人って、硬い枕でよく寝られましたね! ご苦労様です ワンちゃんだってやわらかい枕があれば   グーグー スヤスヤ (ノД`)・゜・。

戦時中の敵国人

イメージ
<4-63-2> <4-63-3> 支那料理屋を營んでいた人が二次大戦勃発のせいで支那へ送還されることになり  せめて目前に近づいた出産の日まで猶予をたのんだが無情にも別れさせられたそうな K 子と同じ年なので忘れられない 中国残留孤児の記事を見るこの頃 T 聖公会のミス. H 牧師も生国英国へ送還と決まったが  二十余年の日本布教で 英国には身寄りもなく  オーストラリアのシドニーで戦争終結を待ったが  日本を恋いつつ果てたと聞く 戦争は惨い 《巷の凡人の雑感》 戦争中には日本に入る外国人(敵国人)、また外国にいる日本人 それぞれ大変な目に会ったようです。 「戦争とはこんなもん」   で済ますには確かに惨いです。 下のパンフレットは東京市内案内の栞です。 「昭和十五年十月一日自動車に依る東京市内遊覧が休止されて…」とあるので、 太平洋戦争が始まった後のものでしょうか。 サービスの案内文の最後に『 スパイ御用心 』とあります。 なんだか不気味に感じますが 当時は疑心暗鬼になっていたのでしょうね。

母は乱雑なのを嫌っていた

イメージ
<4-62-2> 徳川慶喜が大坂城から海路江戸へ走った当時の大手門前の母の生家は 物騒の中で暮しているような時期だったらしい 色んな話をしてくれたものだった そんな幼児期だったので整頓は 命を守る手段でもあったらしく それはそれはきびしく躾けられたので いつか 習い性となる (*1) で 乱雑なのを嫌う人間になっていたんだな (*1)習い性と成る:ならいせいとなる。          習慣はついに性質のようになる。 《巷の凡人の雑感》 私は祖母を知りません。 でも 祖母の写真を見ると確かにそんな性格が表れているように感じました。 亡母もそれを受け継いでいたのでしょう。 私もず~っと 寝るときには、翌日着る服を綺麗にたたんで枕元に置くように云われていました。 子供の頃はそれをず~っと守っていたのですが、 今では朝起きてからしばらくは寝巻のまま……… 現在は、いわゆる 安全・安心の日本になった証でしょうか。 だったら ずっとずっと そうであるよう願いたいですね。

亡父は梅をこよなく愛していた

イメージ
<4-61-6> 亡父はよく生前 天満の天神さん 北野の天神さん 伊賀の天神さんと拝んでいた 天満は菅公の伯母君の館跡らしく 九州大宰府へ途次立ち寄って その池の水に姿をうつし 之を形見とおっしゃったと云う 天神橋は高いな 落ちたら怖いなと物語のあとにはよく歌ったもの 伊賀の天神さんは 大坂城落城近しと伊賀上野に疎開して暮した車坂町が天神社に近かったので なつかしかったらしい それで無骨者に似げなく梅をこよなく愛していた  … 《巷の凡人の雑感》 道真公も京都から九州へ 亡母の父母も大坂から九州へ 同じような境遇だと感じていたのでしょうか? 梅には特別な想いがあったのでしょう。 「東風吹かばにほひをこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」 (我が家の梅の花です)

面白い投書

イメージ
<4-57-2> 面白い投書がのっていた 「お前達のような馬鹿は居ない」 と先生から云はれたのが口惜しいという そうだ  口惜しがれ  反撥せよ  がんばれ 若いんだもん 《凡人の雑感》 亡母もこの心意気で若い頃を過したようです。

学校給食で連帯感

イメージ
<4-57-3> 学校給食について連帯感を養う為に 学校の給食を全国一律にカレーにせよと書いてあったら 12才の子が  まづ大人が連帯感が沸くかどうか ためしてみよ と投書がのっていた 今の子は仲々よい事を云う 《凡人雑感》 昭和57年当時、こんな話(投書?)があったのですね。 なるほど 「全国一律カレー」を提案した人はともかく 反応した当時の12才もすばらしい! 私も同感 (*^^)v 旧帝国海軍にもカレーはあったようだし 現在の海上自衛隊も毎週金曜日はカレーライスだとか。 なるほどなるほど 連帯感はこれで養っていたのですね。 カレーにこんな効果があったとは! それにしても 連帯感を養える和食は無かったのですかね。 味噌汁や玉子かけゴハンだって全国一律なら連帯感が生れても良いようですが……… 連帯感が養えれば次は何を求めましょう? そうですね 「連帯感」⇒「愛国心」でしょうか。 なるほど なるほど!

借家住まいの紀州藩士は

イメージ
<4-55-3> 大坂城の大手門前で袋物商を営む家に育った母は 幕末維新の時浪人した紀州藩士三人を借家に住はせていたらしい その中の一人が今の道頓堀が刑場だったせいで 刑吏として仂いていたらしい が 刑吏に珍らしい優しい人で 非番の日には日の当たる縁側で虱(しらみ)をとりながら 「コレコレ 次の世では人間にひねりつぶされる虱なんかに生れるんぢゃないよ」 と放してやっていたそうな そのせいか刑をおえてきた者が お礼にやってくることがあったそうな 《巷の凡人の雑感》 大阪の地理は精しくはありませんが、道頓堀の近くの千日前あたりに刑場があったようですね。 そんな町の中に刑場があるとは…  悪い事は出来ませんね。   ま~、見せしめには効果があったでしょう。 この刑吏ではないですが 私も年を取った今では小さな虫でも殺すことはできなくなってきました。 といっても、 いまでも、ノミやシラミだったら、見付ければ問答無用で潰してしまうでしょう。 この刑吏 確かに優しい性格のようですが シラミを逃がすような性格で刑吏が務まってたのでしょうか? とてもとても斬首刑なんかはできないと思われます。 まだまだ鞭打ち刑があったようですから、そちらのほうで手加減していたのですかね。 以上、わたしの勝手な想像です

小学校の担任の先生

イメージ
<4-52-1> 入江スガノ先生には小1,2,3年の3年間お世話になった やさしいとても好きな先生が病気で退職されるときき 電車で先生のお宅まで見舞いに行ったらとても嬉んでくださって涙を流して下さった よくも大胆にあんな遠くまで行ったもの <4-52-2> 小4の担任は神代先生 4月の授業開始の日 開口一番「4年生にもなって5年生の本が読めないのか」と飛上る程の大きな声で叱られた 5年生が4年生の本が読めないなら叱られても当り前だが キョトンとしていた それから前日に家庭でよーく読んでおいて学校では不審な所を聞くことした 老令の為 男子中学(今の高校)をやめて小学校教師となった一風変った方だった とてもいい先生だった 《凡人の雑感》 電車でお見舞いって  小学生がどこまで見舞いに行ったのですかね。 子供の頃から実行力があったようです。 それにしても小学校の事をよく憶えています。 私が憶えているのは 小学校に入学した時は女の先生で大谷先生。 「やさしい先生」だったと記憶しています。 何しろ入学時には泣きべそ小僧だった私には、天使のような先生だったと思っています。 亡母もこの先生の事は、ずっと「良い先生」だったと云ってました。 5・6年の担任は男の先生で相原先生。 大変おせわになった先生です。 亡母にもこの先生はやっぱり「よい先生」だったようです。 この先生が園芸部の先生だったので私も所属していました。 また夏休みにはクラスで希望する5・6人ほどを、あがの峡や千石峡、中学になってからも耶馬渓などにキャンプに連れて行ってもらってました。 その時の体験から、その後キャンプや山登りが好きになり、歳をとった今でも近くの山を彷徨しています。 ところで 二年生から四年生までの記憶がほとんどないのは…ボーッとした性格だったからでしょうか? それともそろそろ私にも老人特有の症状が………(>_<) さらに  その間の写真さえも残っていません。 そうです、そうです  写真が無いから記憶を呼び戻せないのかも知れませんね。  目出度し めでたし (^^ゞ

虱退治

イメージ
<4-50-2> 終戦後の虱 (しらみ) 騒動はまだおぼえている人も多いだろう  頭髪にDDTをま白くふりかけられて学校から帰ってくる 戦争中は千人針 (*1) の腹まきが虱の温床だった 駆除法はセンプリの溶液を頭にも下着にも浸すこと  そうすると苦いのに辟易してよってこない 今年は学童に虱が流行しているそうな (*1)千人針:せんにんばり。       一片の布帛(ふはく)に千人の女が赤糸で一針ずつ縫って       千個の縫玉を作り、       出征将兵の武運長久・安泰を祈願して贈ったもの。 《巷の凡人の雑感》 昭和56年頃ですか たしかに一時期、そんなニュースを見聞きした記憶があります。 でも いまでもシラミ退治方法がネットに出ていますよね。 戦後は衛生状態が悪くノミやシラミは当り前のようにそこいら中にいました。 (寝床に入ってからノミがごそごそと体を這っているのに気がつくと、寝てるどころではなかったですよ) そして戦時中の千人針 ノミやシラミにとっては絶好の隠れ場所だったとは……… 云われてみれば納得です。 私が小学生の頃、 年に一度くらいの頻度で女生徒だけ学校でDDTをかけられていました。 その日の給食当番は男子だけが担当。 彼女達は真っ白い頭で下校していました。 DDTは現在では禁止農薬となっていると聞きます。 とんでもない駆除方法だったのですかね。 現在ではDDTもセンブリも使わず、別の方法で退治しているようですね。 ※ この話は2a-62-4にも出てますね。

母の九州入り

イメージ
<4-46-5> 明治三十九年 單身赴任の父の 跡 を追って 母は九州入り その頃の旅は子供連れには大変だったらしい 又 新住所の八幡は大阪とは衣食住とも大違い まづ転校した子の上草履が非難される 登校もはだしの多い頃なので きれいな上草履なんかおどろきだったらしい 衣類も 母の茶羽織を炭鉱婦の丈けの短い着類のようといはれたらしい 母にしてみたら京都の御りょんさんみたいと云はれたいらしかったのに 天と地程の違う比喩にとまどうばかり お正月がきて餅も搗けない 官舎に住んで畠も出来ない 燃料も木炭で煮炊きしていたのに ガラだの何だのと手におえない 外国に行ったみたいに言葉もすらすら通じない 思っても不便だったろうと察しられる 《凡人の雑感》 「單身赴任の父」というのは八幡製鐵所が創業した明治34年前後に八幡へ来ています。 亡母の母が当時の大阪市から八幡に来たという明治39年には、2男3女の子供がいました。 当時は国鉄はすでにあったようですが、子連れの旅はやっぱり大変だったのですかね。 そして大阪の人からは、猿や猪と一緒に生活していると云われた八幡に来て  大藏の官舎で生活していました。 こちらの👉「 父母の思い出 」には 「福岡県くんだりまで来てしまった淋しさを 夫婦でまぎらわせていたみたい」 とあります。 ず~っと淋しかったのでしょう。 亡くなるまでずっと亡母と生活していたので、しょっちゅう大阪の話を聞いていたみたいです。 それで八幡生れ八幡育ちの亡母も  大坂の生活習慣や芸能について、詳しくなったようですネ。

夜の電報配達

イメージ
<4-41-4> 明治初年 電報の制度が実施 (*1) された頃  「電報、電報」と夜の表戸をはげしくたたく人声に 疑心もなく開くと やにわに屈強の男が五人 どかどかと玄関の疊に白刃を突き立てたので母の叔母はあまりのショックで失神 そのまま発狂して明治六年ごろ死んだそうな 罪な強盗 大坂のメリヤス火事の夜は通夜だったそうで 死骸を納棺するひまがなく  長持に入れて一夜 家具共々安全な場所に運んでおいたら  長持が行方不明になり 八方探したら  蓋を開けたままうちすてられてあったそうな 火事場泥棒のあはてぶりを空想して 母はよく笑っていたっけ 近頃 夜間の電報配達がサラ金に利用されるので 廃止になるとかテレビで云っていた (*1):明治2年 1869年 東京・横浜間で電報取り扱い開始    (NTT東日本>電報の歴史より) 《凡人のメモ》 この話は以前の記事にもあります👉「 明治の大坂の大火で… 」 明治6年頃の大阪の大火の記録を見付けることはできませんでした。 『メリヤス火事』というのは明治42年(1909年)7月31日発生とのこと。 一方、この話は明治6年ごろの話。 【追記】(2020年4月) 最近調べたところ 「『明治大正大阪市史』 第一巻 概説編 第十章(保健及災異)」の〔七、大火〕に 「…維新後の大火といえば慶應四年・明治六年(京橋通)…」 と出てくるので、この火事の事だと思われます。 「明治大正大阪市史」第一巻 (国立国会図書館ウエブサイトより) ということで、この時の火事はメリヤス火事ではなさそうです。 明治6年の火災の話とメリヤス火事の話が混同しているのかもしれません。

父ちゃんは箪笥も長持も皆呑んで死んだ

イメージ
<4-29-1> 父ちゃんは箪笥も長持も皆呑んで死んだの 子供達は父親の顔もおぼえていない と云ったら  そんなにお酒が好きだったのかときかれる 呑むのは酒ばかりぢゃあるまいし 薬だって呑むものよ 終いには鯉の生血をふるえふるえ絞って呑ませたのだった 命を助けたいばかりに 爆撃された八幡の街をバケツさげて鯉を求めて歩いて行けば 電車線路は目茶目茶 自動車も 馬車は馬もろとも焼け死んでいて 小伊藤山 (*1) まで来ると小伊藤山を掘り抜いた防空壕から死体が次々運び出されていて凄惨な光景 思い出しても背すじの寒くなるような中を歩いて行ったのだった (*1)小伊藤山の防空壕では昭和20年8月8日の八幡大空襲の際、      中で多くの犠牲者が出た所です。 《凡人の雑感》 父ちゃん(私の父)は製鉄所に勤めていましたが、病気で休むと亡母は八幡の本事務所に呼び出されたそうです。 そこには軍刀を持った憲兵が机に脚をのせて座り、その足の間から顔を出して--- 出勤させる様に云われたそうです。 病気だからと云っても聞き入れてくれなかったそうです。 結局、無理がたたったのでしょう。 終戦の翌年の昭和21年に、肺の病気で亡くなっています。 私が3才になる少し前、姉は8才でした。 この本事務所での体験はずっと腹に据えかねていて  その後何度も腹立たしそうに話していました。 「大の男の兵隊が、女相手に軍刀もって脅すような・・・威張り散らして・・・」 兵隊さんが軍刀を杖の様に持って椅子に座るのは、記念撮影のためだけではなかったのです。 こうして相手を威圧する道具としても使っていたようです。 でも、 相手が女でも? …この態度は… もっとも私の現役時代でも、仕事がうまくいかないとき 「死ぬ気で頑張れば不可能はない」 みたいなことを言う上司もいましたからね。 時代も変わり、プレッシャーを受け止めないようにする術を知ってましたので、ほぼ無事に勤め上げました。 でも、もし上司が軍刀を持っていれば・・・即座にひれ伏し従っていたでしょうね。 「 こんな時代に戻りませんように 」

押しくら饅頭

イメージ
<4-22-2> 押しくら饅頭 ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せ みんな押せ 押したら寒さが逃げてくぞ 寒さが逃げてって 体がぽかぽか 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したら弱虫泣きだすぞ 弱虫泣きだし 泣けべそとびだす 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したら饅頭つぶれるぞ 饅頭がつぶれて あんこが飛び出す 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したらおにぎりつぶれるぞ おにぎりつぶれて梅ぼし飛び出す 《凡人の雑感》 子供の頃遊んでいた『おしくらまんじゅう』の歌ですね 当時の冬の暖房はこれしかなかった…ですね。 歌詞はネットで調べると いろいろあるようです 地方や時代で違っているのですかね。br> ネットで調べても此処に出てくる歌詞は見付けられませんでした。 この歌詞は亡母が記憶の中から書きだしたものか それともどこからか書き写したものかわかりません? (表現に少し方言が混じっているようなので実際に歌っていたものと判断しています) 次の歌詞が一般的の様です  おしくらまんじゅう 押されて泣くな、  あんまり押すと あんこが出るぞ  あんこが出たら つまんでなめろ 私の子供の頃(昭和20年代)はただただ 「押しくらまんじゅう!押しくらまんじゅう!」 と怒鳴っているだけだったような気がします。 『愛想もくそもない』ってとこですかね。 古い楽譜帖にはこんな歌もありました 👇 画像をクリックするとYouTubeへジャンプします

戦時中、伝令を仰せつかったが

イメージ
<4-20-2> 戦時中の婦人の生活 という放送があった あの頃 私は伝令を仰せつかり 赤ん坊だったK子を背に走りまわっていた 伝令は毒ガスの落ちた道もあるだろうと防毒面が支給されたが 背中の乳児は無防備のまま たまりかねて乳児用を請求したら乳児用は無いという 産めよ殖やせよはかけ声だけかと くやしかったな  《凡人の雑感》 この話、よほど悔しかったとみえて二度目です。 (2014年11月15日投稿の 「子供の誕生と戦争の進行」 にも出ています) 防毒面は結局は防火演習用だったみたいで、  その後の実際の空襲が始まると無用の長物だったとか。 バケツリレーなどの防火演習も絨毯爆撃の下では役立ちそうもありません。 戦時中は戦争に勝つためのスローガンが沢山あったようです。 戦後派の私も知ってるスローガンなどは 「欲しがりません勝つまでは」・・・勝つ保証があれば? 「ぜいたくは敵だ」・・・・・・我が家では今でもこの精神です 「進め一億火の玉だ」・・・・今の時代ではちょっとしんどいかな? 「月月火水木金金」・・・・私だって現役時代はこんな仕事ぶりが少しあったかも 「本土決戦」・・・・・・いやです! 「鬼畜米英」・・・・・せめて近隣諸国とは… etc. そうそう 近年の少子化問題で見つけたのは 「パパが産休、家族にサンキュウ」 「産めよ殖やせよ国のため」  みたいに指示・命令的ではないようです・・・ネッ!

八幡さまと鎮守さまの思い出

イメージ
<4-19-2> 八幡さまの方は神主さんが常住していたが 鎮守様の方は無住だったので 乞食が拝殿に住みつき 時折 八幡さまの神主さんに追い立てられて逃げていく その鎮守さまは石段もなく子供達の恰好の遊び場で ハンモック吊って昼寝したり 湧き出る泉に足を浸して涼んだり 夏休みはよく行ったもの 又おまつりの夜は禪宗坊主の行列にさしかけるみたいな大きな傘さしかけ (*1) や 飴屋やお面売りの屋台やが十軒程細い野道の両側に並んでいた あんな時代もあったのにな (*1)傘さしかけ:⇒「差し掛け傘」の事かな? 《凡人の雑感》 大正時代で現在の八幡西区大蔵にいたころの話でしょう。 八幡さまは『乳山八幡神社』、鎮守様は『勝山勝田神社』のことだと思われます。 ただ「鎮守さまには石段もなく…」と書かれていますが、地図を見ると長い石段があるように描かれています。 もしかしたら鎮守様は別の神社かもしれません。 私の古い思い出の中には、何の変哲もない日常の小さな出来事が何故か記憶に残っているものがあります。 幼いころの、あまりにも平凡な出来事なので、本当の話なのか、それとも大きくなって誰かから聞いた話なのか判断が付きません。 (もしかして夢で見たことなのでしょうか?) 今となっては確認しようもないそんな出来事が、かえって何か気になっているこの頃です。

姉と私の着物の仕立寸法の違い

イメージ
<4-18-5> 神戸の姉の着物は普通の人の仕立て寸法と違っていた 七、五、三、の五分まわしと云って 後巾75分 前巾55分 衽巾3.5分に縫い 小股の切れ上った女 (*1)  即ち粋な女といはれたくてしょうがなかったらしい 私は身長が低いので袖丈1尺五寸 羽織丈2尺2寸に縫い 小女 (*2) といわれないように心がけた (*1)小股が切れ上がる:婦人のすらりとした粋(いき)なからだつきをいう (*2)小女:こおんな。      ①幼年の女。少女。②小柄の女。③年のゆかぬ女中。 《凡人の雑感》 『神戸の姉』というのは明治三十年生れで亡母より十才年上です。 やはり粋な女が理想だったようですが 小柄な亡母としては少し羨ましかったかもしれません。 効果は出ていたのかな~ 残念ながら男の私では・・・ 着物に関しては何を言ってるのさっぱりかわかりません。 小数点も抜けているかもわかりませんし、写し違いもあるかも知れませんね。 <m(__)m>

日本坂トンネル災害

イメージ
<4-16-4> 日本坂トンネル災害 (*1) 二年とのことで小仏トンネルで訓練があったらしい 戦時中の訓練で 目の怪我 と書いた札持った人を担架で運んでマイナス点もらったと笑って話していたが  そうよね 火事の時「私の家が火事」と電話口で消防署にどなるだろうと人の事は笑えない (*1)日本坂トンネル火災事故:1979年(昭和54年)7月11日     東名高速道路の日本坂トンネルで発生した火災。     7名が死亡し、加えて2名が負傷。173台の自動車が焼失     日本の道路トンネルにおける火災として史上最大規模の事故・・・。 《凡人の雑感》 これは昭和56年(1981年)に書かれたものです。 明日(2015年7月11日)で事故から36年となるようです。 同じ年の3月28日にはスリーマイル島原子力発電所事故が発生しています。 当時 大事故と認識していても、自分には関係ないと感じていました。 マイカーを持たないので高速道路の事故は他人事だし 原発の事故は日本ではありえないように云ってた人もいたし。 どの事故もそうですが、大きな事故には必ず設備や判断ミスなど様様な要因が重なっているように思います。 人間の判断力は別にして、せめて 「防災設備が機能しない、無力だった」 なんていわないで! なにとぞ過去の事故・事例を教訓にして安全を確保して戴きたいもの。

若いころの蓮っぱな行動

イメージ
<4-9-6> 淑徳 (*1) 持ちに活水まげ (*2)  又は耳かくし (*3)  V字形衿元 サージの袴 電車のパス券に十字架つけて 女だてらに電車の飛び乗り飛び降りにモスの着物の裾を破いたり 今は分別臭い顔しているが若い頃はずい分蓮っぱな (*4) 行動してたな (*1)淑徳:しゅくとく。      しとやかな徳。婦人の美徳。 (*2)活水まげ:女性の髪形の一つのようですが??? (*3)耳かくし:耳隠。婦人の洋風結髪の一。耳を毛髪で覆い隠すように結った束髪。        大正八、九年頃に流行。 (*4)蓮っぱ:蓮葉(ハスハ)の促音化。       ①蓮の葉       ②(蓮の葉が水をはじくときの形状にたとえた語という。         一説に、斜端(はすは)の意とも)        女の、態度や行いが軽はずみで落着きのないこと、        また浮気で身持ちの定まらないこと。また、その者。はすっぱ。 《凡人の雑感》 ちょっぴり反省の弁ですか? いえいえ それより歳をとって、若い頃の(無鉄砲な?)行動を懐かしんでいるように見えます。 だれだって一度は通る道みたいです 結局 年を取って若者に苦言を呈しても、自分もそんな時代を通ってきたのですから。 私も歳をとってよーく判ります。 それで、昔の写真を探しましたが 残念ながら蓮っ葉なところが映った写真が見つかりませんでした。 残念無念 😞

八幡製鉄所の給料日

イメージ
<4-6-2> 昔の八幡の製鉄の給料日の賑はいは市のたつ日のような  がまの油売り  灰汁 (*1) の入った墨汁で蛇の絵を書いてお金の儲かる掛軸に売っている者  いかさま五目並べ  昆布を幾晩か地上に置いて湿らせて目方をだますもの  不老長寿の薬と銘うって人参 玉葱 ジャガの千切を干して   九大医学博士の推薦状をつけたもの  こんな露店が並んでいた (*1)灰汁:あく。①灰を水に浸して取った上水。      炭酸・アルカリ等を含み、布帛の汚れを洗い、物を染めるのに用いる。      -以下略- 《凡人の雑感》 製鐵所の給料は昭和54年頃までは給料は手渡しだったので ここまでではないものの、門の前にはそれと分かる(?)女性が立っていました。 飲み屋に多くのツケを溜めている人は少し時間を遅らせて帰っていたようです。 でも現場勤務の職工の悲しさ 社員就業規則で「速やかな退勤」が義務付けられていて 一時間を超えて退勤すると守衛さんから大目玉をくらってました。 今ではどうか知りませんが 当時の会社の守衛さんは絶大なる権力を発揮していましたからね。 ある人の話では 「少しの権力を手にすると、その権力を振りかざしたくなるのは人間の本性」 だと云ってましたが、私はそうではないと思います。 ただただ職務に忠実だっただけだと思います。 私が北関東の他社工場に出はいりしていた時の守衛さんも、全く同じでした。 その工場から退勤する時は 「私は産業スパイでも泥棒でもありません」と 目で訴えながら門を通過していました。 あれれっ! 少し給料日の模様と離れてしまいましたね _(._.)_