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こんな戦争になるとは
<4-98-2> 日清 日露 一次大戦は万歳 万歳で兵士を送り出し 万歳 万歳で迎えて終った 戦争とはこんなものと二次大戦開始を思っていたら 敵機が頭上を飛び交い 戦々恐々 夜もおちおち眠れない サイレンに怯え 爆撃におののき 夕方皆で食卓をかこんで無事を確める 朝は勤めに学校に行くのを どうぞ無事に帰ってと 一日一日の命を預って生きた こんな筈ではなかったのにと思った時はもうおそい 《巷の凡人雑感》 もちろん 日清戦争は明治27年-明治28年、日露戦争は明治37年-明治38年で 亡母が直接経験したわけではありません。 でも両親からは何度も話を聞いてたようです。 第一次世界大戦への日本の参戦が大正3年、そして終戦が大正7年。 この頃には10歳を過ぎています。 その後結婚し、長女(私の姉)を出産した昭和12年頃には支那事変から太平洋戦争へとまっしぐらです。 最初の頃はまだまだ 万歳!万歳!万々歳!だったのでしょうね。 でも・・・ やがて・・・
日本で最初の美人コンテストの話から
(1a-20) アップダウンクイズで末広 (*1) さんのお嬢さんが明治四十一年に日本で最初の美人コンテストで一位になり大層な評判だったという 末広さんは小倉市長をやめられてから八幡の町長に迎えられ 大正七年 八幡市になって臨時市長をつとめ 堀口市長が正式に赴任するまで大蔵の和田さんの家に住んでいられたので可愛がって戴いた 当時奥様は病気勝ちだったとかで 東京のおやしきにいらっしゃるという噂で 市長さんの身の廻りの世話は片山さんという方がしておられました その片山さんに男の子がいて 私と同年位だったので 私の家は官舎ですぐ近くだったのでよく遊んだものだった だって東京のおやしきから片山さんのお子さんに珍しいおもちゃがよく送られて来たので それにたかっていたようなものだった 中でもローラースケートはとくにしつこくねだって とうとう貸して戴き 足につけて立上ったとたんに ずでんどう と見事にひっくり返ってしまった そのびっくりした事 痛かった事 生涯二度とはいた事がない 市長さんは 又 子供好きだったらしくお家にいらっしゃる時は色々の話をして下さったが 何を話したかおぼえていない 只 16才で西郷隆盛方の一兵として明治10年に初陣され その時ヒタイに刀傷を受けられたとの話はよくおぼえている 電話も珍しく 大蔵には市長さんのお宅と水源地に製鉄から取付けられたものがあったきりだったが かけさせてもらへるのは市長さんのお宅だけ でも子供に電話をかける用事もなくよく交換局に時刻をたづねたものだった その末広さんが市長もやめられた後も大蔵に住んでいらしたのでお葬式は大蔵で営まれ 東京からお嬢様が奥様の名代としてみえられた さあ大変 美人のお嬢様見たさに大蔵中の女共が集まって来た 私もその中に居たがそのお美しい事 さすがに学習院出の才媛 黒の喪服が印象的だった なつかしい思い出の一コマ・・・・・ (*1)末広⇒末弘ヒロ子 《メモ》 北九州市の「 八幡東区の歴史について知りたい 」によれば 明治22.4.1 町村制施行(尾倉・大蔵・枝光村合併、八幡村に) 〃 33.2.15 町制施行 〃 34.2.5...

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