日本で最初の美人コンテストの話から
(1a-20)
(*1)末広⇒末弘ヒロ子
《メモ》
北九州市の「八幡東区の歴史について知りたい」によれば
明治22.4.1 町村制施行(尾倉・大蔵・枝光村合併、八幡村に)
〃 33.2.15 町制施行
〃 34.2.5 官営製鉄所東田第一高炉火入れ(操業開始)
大正 6.3.1 市制施行、八幡市に
〃 14.4.28 企救郡板櫃町の一部(槻田及び板櫃の一部)を編入
〃 15.11.2 遠賀郡黒崎町を編入
昭和 2.3 河内貯水池完成
〃 12.5.5 遠賀郡上津役村を編入
〃 19.12.8 遠賀郡折尾町を編入
〃 20.8.8 空襲により八幡の町は廃墟と化す
〃 30.4.1 遠賀郡香月町・鞍手郡木屋瀬町を編入
〃 32.11.12 帆柱ケーブル開通
〃 38.2.10 北九州の五市が合併し、北九州市となる
ウィキペディア(2014年8月)の「末弘直方」によれば
小倉市長(1906年5月 - 1912年5月])を歴任。
1914年10月、福岡県遠賀郡八幡町長に就任。
同町が市制施行し、1917年7月、初代市長に就任し、1918年9月に辞任した
娘は末弘ヒロ子
堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日(明治5年1月29日) - 1935年(昭和10年)3月11日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。
1918年11月18日、八幡市長に就任した
※ 上記のように亡母の記憶とは一部異なっているところもあります。
特に16才で西郷隆盛方の一兵として明治10年に初陣され・・・」
のところは完全に記憶違いの様です。
「思い出の一コマ」として大目に見てください<m(__)m>
アップダウンクイズで末広(*1)さんのお嬢さんが明治四十一年に日本で最初の美人コンテストで一位になり大層な評判だったという
末広さんは小倉市長をやめられてから八幡の町長に迎えられ 大正七年 八幡市になって臨時市長をつとめ 堀口市長が正式に赴任するまで大蔵の和田さんの家に住んでいられたので可愛がって戴いた
当時奥様は病気勝ちだったとかで 東京のおやしきにいらっしゃるという噂で 市長さんの身の廻りの世話は片山さんという方がしておられました
その片山さんに男の子がいて 私と同年位だったので 私の家は官舎ですぐ近くだったのでよく遊んだものだった
だって東京のおやしきから片山さんのお子さんに珍しいおもちゃがよく送られて来たので それにたかっていたようなものだった
中でもローラースケートはとくにしつこくねだって とうとう貸して戴き 足につけて立上ったとたんに ずでんどう と見事にひっくり返ってしまった
そのびっくりした事 痛かった事 生涯二度とはいた事がない
市長さんは 又 子供好きだったらしくお家にいらっしゃる時は色々の話をして下さったが 何を話したかおぼえていない
只 16才で西郷隆盛方の一兵として明治10年に初陣され その時ヒタイに刀傷を受けられたとの話はよくおぼえている
電話も珍しく 大蔵には市長さんのお宅と水源地に製鉄から取付けられたものがあったきりだったが かけさせてもらへるのは市長さんのお宅だけ
でも子供に電話をかける用事もなくよく交換局に時刻をたづねたものだった
その末広さんが市長もやめられた後も大蔵に住んでいらしたのでお葬式は大蔵で営まれ 東京からお嬢様が奥様の名代としてみえられた
さあ大変
美人のお嬢様見たさに大蔵中の女共が集まって来た
私もその中に居たがそのお美しい事
さすがに学習院出の才媛 黒の喪服が印象的だった
なつかしい思い出の一コマ・・・・・
末広さんは小倉市長をやめられてから八幡の町長に迎えられ 大正七年 八幡市になって臨時市長をつとめ 堀口市長が正式に赴任するまで大蔵の和田さんの家に住んでいられたので可愛がって戴いた
当時奥様は病気勝ちだったとかで 東京のおやしきにいらっしゃるという噂で 市長さんの身の廻りの世話は片山さんという方がしておられました
その片山さんに男の子がいて 私と同年位だったので 私の家は官舎ですぐ近くだったのでよく遊んだものだった
だって東京のおやしきから片山さんのお子さんに珍しいおもちゃがよく送られて来たので それにたかっていたようなものだった
中でもローラースケートはとくにしつこくねだって とうとう貸して戴き 足につけて立上ったとたんに ずでんどう と見事にひっくり返ってしまった
そのびっくりした事 痛かった事 生涯二度とはいた事がない
市長さんは 又 子供好きだったらしくお家にいらっしゃる時は色々の話をして下さったが 何を話したかおぼえていない
只 16才で西郷隆盛方の一兵として明治10年に初陣され その時ヒタイに刀傷を受けられたとの話はよくおぼえている
電話も珍しく 大蔵には市長さんのお宅と水源地に製鉄から取付けられたものがあったきりだったが かけさせてもらへるのは市長さんのお宅だけ
でも子供に電話をかける用事もなくよく交換局に時刻をたづねたものだった
その末広さんが市長もやめられた後も大蔵に住んでいらしたのでお葬式は大蔵で営まれ 東京からお嬢様が奥様の名代としてみえられた
さあ大変
美人のお嬢様見たさに大蔵中の女共が集まって来た
私もその中に居たがそのお美しい事
さすがに学習院出の才媛 黒の喪服が印象的だった
なつかしい思い出の一コマ・・・・・
(*1)末広⇒末弘ヒロ子
《メモ》
北九州市の「八幡東区の歴史について知りたい」によれば
明治22.4.1 町村制施行(尾倉・大蔵・枝光村合併、八幡村に)
〃 33.2.15 町制施行
〃 34.2.5 官営製鉄所東田第一高炉火入れ(操業開始)
大正 6.3.1 市制施行、八幡市に
〃 14.4.28 企救郡板櫃町の一部(槻田及び板櫃の一部)を編入
〃 15.11.2 遠賀郡黒崎町を編入
昭和 2.3 河内貯水池完成
〃 12.5.5 遠賀郡上津役村を編入
〃 19.12.8 遠賀郡折尾町を編入
〃 20.8.8 空襲により八幡の町は廃墟と化す
〃 30.4.1 遠賀郡香月町・鞍手郡木屋瀬町を編入
〃 32.11.12 帆柱ケーブル開通
〃 38.2.10 北九州の五市が合併し、北九州市となる
ウィキペディア(2014年8月)の「末弘直方」によれば
小倉市長(1906年5月 - 1912年5月])を歴任。
1914年10月、福岡県遠賀郡八幡町長に就任。
同町が市制施行し、1917年7月、初代市長に就任し、1918年9月に辞任した
娘は末弘ヒロ子
堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日(明治5年1月29日) - 1935年(昭和10年)3月11日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。
1918年11月18日、八幡市長に就任した
※ 上記のように亡母の記憶とは一部異なっているところもあります。
特に16才で西郷隆盛方の一兵として明治10年に初陣され・・・」
のところは完全に記憶違いの様です。
「思い出の一コマ」として大目に見てください<m(__)m>
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