友達っていいな リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 21, 2014 <1b-25-3> 友達ていいな 入院中は四人部屋だったので いつも賑やかだった 一人部屋の人が羨しがって よく話の仲間にはいりに来たものだった 点滴さへなけりゃ もっと入院していたかった 《メモ》 エッ!もっと入院? 確かに賑やかな方が断然好きだったけど・・・ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
B29を見て驚く 1月 15, 2016 <4-98-4> 撃墜されたB29が公会堂の前庭にさらされていると市報で知り見に行って驚いた プロペラの エンジンの ベアリングの大きさ それが二段一組で四カ所のプロペラ これは圧倒された 浅はかな考へだった 敵いっこないと思った 続きを読む
こんな戦争になるとは 11月 24, 2015 <4-98-2> 日清 日露 一次大戦は万歳 万歳で兵士を送り出し 万歳 万歳で迎えて終った 戦争とはこんなものと二次大戦開始を思っていたら 敵機が頭上を飛び交い 戦々恐々 夜もおちおち眠れない サイレンに怯え 爆撃におののき 夕方皆で食卓をかこんで無事を確める 朝は勤めに学校に行くのを どうぞ無事に帰ってと 一日一日の命を預って生きた こんな筈ではなかったのにと思った時はもうおそい 《巷の凡人雑感》 もちろん 日清戦争は明治27年-明治28年、日露戦争は明治37年-明治38年で 亡母が直接経験したわけではありません。 でも両親からは何度も話を聞いてたようです。 第一次世界大戦への日本の参戦が大正3年、そして終戦が大正7年。 この頃には10歳を過ぎています。 その後結婚し、長女(私の姉)を出産した昭和12年頃には支那事変から太平洋戦争へとまっしぐらです。 最初の頃はまだまだ 万歳!万歳!万々歳!だったのでしょうね。 でも・・・ やがて・・・ 続きを読む
櫻井忠温の「肉弾」を読んで 8月 21, 2014 <1b-29-3> 教育テレビによると櫻井忠温の「肉弾」は明治のベストセラーだったらしい カーキ色に赤い縦線のはいった歩兵が書いたとすぐ分る装丁で 割合小型だったとおぼえている 家族の誰が買ったのか 本箱から引き出して来て 小学四・五年頃読んのではっきり思い出せないが 戦争ってむごいものと思った そして梅谷さんて方の二〇三高地の話(少尉で従軍し手に弾傷の跡) 父が日本海々戦砲声におびえつゝ 帆柱山 (*1) 中に逃げた話 父だけ赴任して母は大坂に在り 護送された将兵の為 蚊帳を縫ったとのこと 大きな蚊帳は軽傷兵の為なのでペチャクチャと私語しつつ縫ったが ひとり寝の小型は 重傷兵に使われるだろうと皆しめっぽい思いで縫ったとのこと 文楽の呂太夫さんが…(途中判読不明)…友達に細君を***時 大層ニュースになったとかで 戦勝祝いの旗行列にのしを背につけた仮装が人気を呼んだ話も事のついで話していた 又 野中校長 (*2) が五月二十七・八の海軍記念日は絶対あしや行きの遠足だったし 話は はずんで母の十才の西南戦争にまで及び 中津から船で大坂の安治川に着き 村田蔵六 (*3) によって整備されたのちの赤十字へ収容された由 担架ではこばれる者 人の肩にすがる者 杖でゆく者 その姿は十才の母に強く残ったらしい (*1)帆柱山:北九州市の帆柱自然公園の一部。 子供の頃は皿倉山や権現山も含め全体を帆柱山と言っていたことがある。 (*2)野中校長:亡母の通っていた大蔵尋常小学校の校長。 (*3)村田蔵六:大村益次郎。 たしかに日本赤十字社は西南戦争を機に創立したようですが、 村田蔵六との関係はわかりません。亡母の記憶違いかな? 《メモ》 この文は昭和53年、亡母70歳の頃のもの。 教育テレビでの番組『櫻井忠温の「肉弾」』を見て、昔両親と戦争の話をしたことを思い出したようです。 亡母の父(私の祖父)は文久2年(1862年)生まれ。 八幡製鉄所ができるとき大阪から来て八幡・大蔵の官舎に住んでいました。 日露戦争の日本海海戦は1905年(明治38年)5月27日-28日 八幡でも日本海海戦の砲声が聞こえたというのはびっくりです。 でも福津市の東郷神社のある大峰... 続きを読む
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