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サーカス

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<3b-19-4_5> 有田洋行 (*1) というサーカスがあった 有田さんの親の家が 製鉄病院の坂を下った所にあって 梅雨明けの虫干しには虎の皮の敷物が 二階の手摺にずらりの幾枚もかけ並べてあった 団長は操姉と同い年とかで 八幡で興行する時立ち話していた事もある 日本で名の売れたサーカスだったらしい サーカスはあまり好きでなかった 「あんな危険な事をしなければ おまんまが喰べられないのか」 と子供らしくない言葉で批評していたので 大人から顰蹙 (*2) されていたらしい (*1)昭和三十八年に惜しまれながら解散したそうです。 (*2)顰蹙:ひんしゅく。(不快に思って)顔をしかめる事。まゆをしかめること。 《凡人の雑感》 大正末から昭和にかけての有田サーカス 日本のサーカスの草分け的な存在であったとか。 木下サーカスが私の子供の頃は有名だったような気がします。 それにしても 「あんな危険な事をしなければ おまんまが喰べられないのか」 は、確かに子供らしくないかも。 私が子供の頃の昭和20年代はあまり娯楽がなかったので、私の住んでいた戸畑の駅前でもサーカスが何度か来ていました 製鐵所の起業祭の頃になると八幡の大谷には、サーカスや見世物小屋が並び賑やかでした。 しかし、その中で  「親の因果が子に報い…」 と呼びこむ見世物小屋は好きではありませんでした。 だって本当だったら気味が悪いし、(-_-;) からくりがあるのであれば出したお金がばからしいし (~_~) その頃は何と人さらいもいて  さらわれた子は、こんな見世物小屋に売られるなんて話もあったし (;_:) あ~ 楽しむ余裕のない貧乏人だったからでしょうかね こんな事を思い出すのは  ('◇')ゞ

洞海湾クルージング

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<3b-16-3> 「焼玉エンジンの修理が済んだので試運転に行かないか」と声をかけて呉れたので之幸と船に乗り込む 牧山の見張所によった あれが出港 こちらが入港の報せ ここが若松若松板ガラス こちらが安川と 見るもの聞くものが目新しく 日華油脂の沖迄来たら水上警察の舟が追っかけて来て その舟足の早いこと 見る間につかまって帰れ帰れと帰された 昔の話 《凡人の雑感》 下の鳥瞰図は 「八幡市鳥瞰図 昭和八年 初三郎作」より戸畑付近を切り取ったものです。 牧山の見張所(信号所)も今とあまり変わらない姿で建っています。 ここに書かれているポンポン舟での洞海湾遊覧(?)も独身時代でこの頃だったのではないかと想像します。 鳥瞰図の一番手前に見える小さな島は葛島(かつらじま)のだと思います。 小学校の同級生ははこの島から通学していたと記憶していますが、  今ではこの島も埋め立てられ製鐵所の洞岡地区の一部になってしまっているようです。

若戸の渡しの清兵衛さん

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<3b-16-2> 若戸大橋 (*1) のまだ無い頃 中の島 (*2) に清兵ヱ (*3) さんと云う漕手が居た 若戸渡船 (*4) は市営なので 朝五時から夜十二時までの営業だったので  十二時過ぎから朝の始発まで転馬 (*5) で個人営業 深夜の帰宅の便利と人気があったらしいが いよいよ若戸大橋の工事が始まるというので中の島あった造舟工場が二島へ移転し  清兵ヱさんも家族と共に居なくなると聞いので  一度乗っておきたいと思い よちよち歩きの K 子の手を引いて乗りに行った 序に清兵節を聞かせてとたのんだが いい声だというのに恥かしがって歌ってもらえなかった (*1)若戸大橋:洞海湾に架かる若松と戸畑を結ぶ吊り橋。        昭和33年(1958年)着工-昭和37年(1962年)9月26日開通 (*2)中之島:洞海湾の湾口にあった小さな島で、       今の若戸大橋の橋脚辺りにになるそうです。       昭和14年(1939年)から始まった洞海湾改修工事で、       船舶の運航に邪魔な中島は削られ無くなったとか。 (*3)清兵衛:東畑史の本「流水」の中の「提灯山笠」にも清兵衛さんの名前が       出てていました。 (*4)若戸渡船:若松と戸畑を結ぶ渡船。現在も運行中です。 (*5)転馬:伝馬船のことだと思います 《凡人の雑感》 若戸大橋の工事は昭和33年に始まっているので関係ないですね。 洞海湾の改修工事が始まる前、昭和13年頃の話です。 (亡母の思い違いです。) わざわざ歌までリクエストするとは… 好奇心旺盛なところは、さすがです。 下の圖は「大11測」となっている地図の一部です。 たしかに洞海湾の入口を塞ぐように『中島』があります。 もともとは『かば島』と言っていたようで、 「明33測」と書かれた地図には『かば島』と表示されていました。

昔は変人も多かった

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<3b-15-6> 長靴はいつの頃から履いたのかな 昔 八幡に雨の日も晴れの日も長靴の好きな男がいた 維新の廃藩置県の時 兄は伯爵になったが 弟は部屋住み (*1) だったので平民に ついにその子は八幡で工員生活 この男 家具に目をみはる様な品があり 育ちはおっとり型なので 蟻が甘いものに寄る様に 鎧や刀は次々に他人でに渡っていった 亡父も鉄砲をゆずり受け 猿や山犬の出没するその頃の帆柱山によく登っていた 亡父は職人気質の最後の人と云はれてエピソードの多い人だったが その頃は長靴さんや花ちゃんやその他の変人が多かった 「をんな」を語るの放送を見て (*1)部屋住み:嫡男のまだ家督を相続しない間の身分。        また、次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者。曹司住。 《凡人の雑感》 亡父(私の祖父)は大坂でキセルの製造販売をしていたそうですが、製鐵所ができるときに八幡に来たと親戚から聞いています。 八幡でどんな仕事をしていたのかはわかりません。 残っている写真を見る限り、修繕工場(整備工場)で働いていたようにみえます。 偉い人もいるようですし、子供みたいな人(給仕?)も混ざっています。 どんな職場だったのでしょう。 また『亡父は職人気質でエピソードの多い人』 とありますが、聞いた記憶はありません。 少しでも聞いておけばと今になって思っています。 それにしても 何もない八幡の土地に各地から人が集まり、変人も多かったのでしょうか? それとも、その時代は奇人変人が多かった? 良くわかりません???

花ちゃん

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<3b-15-5> 花ちゃんはほんとの名はなんと云うのかな 男のくせに内股で歩き 弁当箱は 淑徳 (*1) 持ちに 名前は花ちゃんでないと返事をしない 工場内での仕事も掃除やお茶汲なら熱心だが 荒々しい事は大嫌いそうな 間違って男に生れてきたんだろう (*1)淑徳:しとやかな徳。夫人の美徳。 《凡人の雑感》 当時は変人と見られたようですね。 現在の『性同一性障害』でしょうか? (2020/01/10追記)