サーカス

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有田洋行(*1)というサーカスがあった
有田さんの親の家が 製鉄病院の坂を下った所にあって 梅雨明けの虫干しには虎の皮の敷物が 二階の手摺にずらりの幾枚もかけ並べてあった

団長は操姉と同い年とかで 八幡で興行する時立ち話していた事もある
日本で名の売れたサーカスだったらしい

サーカスはあまり好きでなかった
「あんな危険な事をしなければ おまんまが喰べられないのか」
と子供らしくない言葉で批評していたので 大人から顰蹙(*2)されていたらしい

(*1)昭和三十八年に惜しまれながら解散したそうです。
(*2)顰蹙:ひんしゅく。(不快に思って)顔をしかめる事。まゆをしかめること。


《凡人の雑感》

大正末から昭和にかけての有田サーカス
日本のサーカスの草分け的な存在であったとか。

木下サーカスが私の子供の頃は有名だったような気がします。

それにしても
「あんな危険な事をしなければ おまんまが喰べられないのか」
は、確かに子供らしくないかも。

私が子供の頃の昭和20年代はあまり娯楽がなかったので、私の住んでいた戸畑の駅前でもサーカスが何度か来ていました
製鐵所の起業祭の頃になると八幡の大谷には、サーカスや見世物小屋が並び賑やかでした。

しかし、その中で
 「親の因果が子に報い…」
と呼びこむ見世物小屋は好きではありませんでした。

だって本当だったら気味が悪いし、(-_-;)
からくりがあるのであれば出したお金がばからしいし (~_~)

その頃は何と人さらいもいて
 さらわれた子は、こんな見世物小屋に売られるなんて話もあったし (;_:)

あ~
楽しむ余裕のない貧乏人だったからでしょうかね
こんな事を思い出すのは  ('◇')ゞ

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