母校より東京の女学校に生徒を送る

(1a-20)



堀口市長(*1)さんは家が無いそうな
 そんな噂が子供の耳にもはいった

末弘市長さんの後は家主の和田さんが 自分がはいるからと断られ市長公宅のなかった頃とて 市長さんが来る事が出来ないそうな
所が同級生の野村さんの家に市役所が目をつけ 追い立てているそうな

 そんな噂が事実となって野村医院は神田町へ引っ越して 後に市長さんがはいってこられた
意地悪な市長さん と子供仲間に評判が悪い

所が四月になって一人の転入生が紹介された
市長さんのお嬢さんだ
 しかも私と机が一緒

 翌日甲斐さんが東京弁になった
「堀口さんを誘いにいっちゃったらお母様が出てきちゃって いっちゃったって おっしゃったので 私きちゃったのよ」
よくおぼえているでしょ
七十才になっても忘れない程 流行したのですよ
人気の程が知れるでしょ

矢絣(*2)の銘仙の着物に桃色の帯しめて 東京の子はなんてきれいなんだろうと 六年生だった一年間をどんなにうきうきして過した事か

二人びきの俥(*3)で出勤する市長さん
八幡様のお祭りに衣冠束帯で木靴をはいて
市長になったらこんな姿もしなければいけないかといわれたらしい市長さん
 お嬢さんから色んな話を聞いた思い出

 開けて大正九年の製鉄のストライキも静まり三月になると堀口さんは受験のため東京に行って御茶の水女学院に行かれるそうな
 お別れの挨拶そうな
 お見送りに駅まで6年生全員で行く

合格そうな
となると祝電打つと二人 三人寄ってひそひそ話

 私も一つ机で一年過しているので打たずばなるまい
小銭を汗ばむ程握り〆めて 中央区の郵便局に行ったが 生まれて初めての経験だし 親にも友達にも先生にも秘密なので うろうろし乍らもついに電報が打てたそのうれしさ

翌日 朝礼の時に校長曰く
「我が校から東京の女学校に生徒を送ったのは開校以来である まさに我校の名誉である」と・・・・・
先生たちもウキウキしてたのよね


(*1) 堀口 助治(ほりぐち すけはる、1872年3月8日(明治5年1月29日)-1935年(昭和10年)3月11日)
  日本の内務・警察官僚。政友会系官選福島県知事、福岡県八幡市長。
(*2) 矢絣:やがすり。矢飛白。絣柄の一。絣模様を矢羽根の形にあらわしたもの。
(*3) 俥 :くるま。人力車




《メモ》

それにしても…
最近あったことのように書かれて
 記憶力や、実行力には脱帽ですね

楽しく懐かしい思い出だったからでしょう。

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