櫻井忠温の「肉弾」を読んで

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教育テレビによると櫻井忠温の「肉弾」は明治のベストセラーだったらしい
カーキ色に赤い縦線のはいった歩兵が書いたとすぐ分る装丁で 割合小型だったとおぼえている
家族の誰が買ったのか 本箱から引き出して来て 小学四・五年頃読んのではっきり思い出せないが 戦争ってむごいものと思った

そして梅谷さんて方の二〇三高地の話(少尉で従軍し手に弾傷の跡)

父が日本海々戦砲声におびえつゝ 帆柱山(*1)中に逃げた話

父だけ赴任して母は大坂に在り 護送された将兵の為 蚊帳を縫ったとのこと
大きな蚊帳は軽傷兵の為なのでペチャクチャと私語しつつ縫ったが ひとり寝の小型は 重傷兵に使われるだろうと皆しめっぽい思いで縫ったとのこと

文楽の呂太夫さんが…(途中判読不明)…友達に細君を***時 大層ニュースになったとかで 戦勝祝いの旗行列にのしを背につけた仮装が人気を呼んだ話も事のついで話していた

又 野中校長(*2)が五月二十七・八の海軍記念日は絶対あしや行きの遠足だったし

話は はずんで母の十才の西南戦争にまで及び 中津から船で大坂の安治川に着き 村田蔵六(*3)によって整備されたのちの赤十字へ収容された由
担架ではこばれる者 人の肩にすがる者 杖でゆく者
その姿は十才の母に強く残ったらしい


(*1)帆柱山:北九州市の帆柱自然公園の一部。
     子供の頃は皿倉山や権現山も含め全体を帆柱山と言っていたことがある。
(*2)野中校長:亡母の通っていた大蔵尋常小学校の校長。
(*3)村田蔵六:大村益次郎。
      たしかに日本赤十字社は西南戦争を機に創立したようですが、
       村田蔵六との関係はわかりません。亡母の記憶違いかな?


《メモ》

この文は昭和53年、亡母70歳の頃のもの。
教育テレビでの番組『櫻井忠温の「肉弾」』を見て、昔両親と戦争の話をしたことを思い出したようです。
亡母の父(私の祖父)は文久2年(1862年)生まれ。
八幡製鉄所ができるとき大阪から来て八幡・大蔵の官舎に住んでいました。

日露戦争の日本海海戦は1905年(明治38年)5月27日-28日
八幡でも日本海海戦の砲声が聞こえたというのはびっくりです。
でも福津市の東郷神社のある大峰山で聞こえたそうなので、帆柱山(皿倉山)で聞こえても不思議はなさそうです。

亡母の母(私の祖母)は明治元年生まれ。
明治10年の西南戦争は10歳の頃です。

追記=====================================
日本海海戦の砲声については
戸畑郷土研究会の「戸畑豆手帳」(昭和35年5月20日発行)の「377 日本海大海戦」項に

『明治三十八年五月二十八日正午ごろ、ちょうど私が尋常小学校四年生のとき玄界灘方面から遠雷ににた爆音がひっきりなしに教室に聞えガラス戸をふるわせた。
一同せんせんきょうきょうとして勉強も手につかなかったがあとで日本海軍が敵艦をつぎつぎ撃沈した音だということを聞いた。・・・大浜今平』
と書かれていました。
確かに八幡や戸畑でも砲声が聞こえていたようです。

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