母と大宰府に行き玄昉の墓を見つけた

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若い頃 母に大宰府を見せたいと天満宮 都府楼 観世音寺と回り歩いた折 玄昉の墓を見付けた
玄昉とは何をした人だろう
これを知りたいと尋ねたが誰も知らない

わづかに岩波から発行された本があったが廃刊になったと知る

その後まつかぜ荘で松本清張の書いたものを読んだ丈け
磐木(磐井)の乱は古事記のどこいらだったかと 中程から読みだし最後の頁にたった一行出ていた
あの本もいつ失くしたのかな



《凡人の雑感》

玄昉の墓は
「大宰府マップ(大宰府観光協会)」によれば以下の通りです。

『僧正玄昉の墓』は
奈良時代、遣唐船で中国に渡った有名な僧の墓
観世音寺境内の北西には、僧玄昉(げんぼう)の墓と伝えられている宝篋印塔がある。
玄昉は奈良時代の僧、阿倍仲麻呂、吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ、紫袈裟を許された。
帰国後、奈良の宮廷で権力を振るったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。
政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられている。

それから
松本清張『眩人』(1980年、中央公論社)は
 玄昉をモデルにした歴史小説だそうです。

それで
当時の玄昉の墓はこんな感じだったようですね 

これは当時の『大宰府地方名所名刹共同編輯發行』の『大宰府まうで』からのものです。

また、古事記で磐井の乱についての記述は継体天皇の所の最後の個所に、確かに有りましたが
これを見つけるのは結構な努力が入りましたよ~
工業高校出身の私としては全く解読できない文ですね。



でも、これを機会に古事記も読んでみたいと思ってます。

ところで
玄昉と磐井の乱、どう結びつくのかはわかりませんでした

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