買出し
<4-75-2>
<4-75-3>
<4-75-4>
ここ宗像も芋の買出しに歩いた所
原町 入免(イリメ) 王丸と軒並みに頼んで歩いたとタクシーの運転手さんに話したら
あの頃は大変でしたでしょう
でもあの頃と関係ないみたいに立派な街になったでしょうと笑っていた
赤間駅に経済(*)が出ていたら国道3号を海老津まで歩いた
トンネルの上の峠の茶屋までの登りを
K子 T彦 K子 T彦と子の名をよんで登るので有名になってしまった
下ると川を渡り 土堤をよぢ上り
まっ暗な中を駅のホームの裏口で列車を待つ
老人ホームのJ野さんに
「芋の買出しに追っかけてきた巡査ぢゃないだろうね」
と云ったら
「かもね」と冗談が返ってくる平和な時代
有がたい
《凡人の雑感》
私は終戦の年はまだ3才未満。
戦後いつ頃まで買出しに行ったのかは知りません。
赤間駅から海老津駅までは7.1Kmほど。
親は買い出しの荷物を持っているので幼い私も自分で歩くしかない?
小さかったので必死で歩いていたのでしょう。
親は買い出しの荷物を持っているので幼い私も自分で歩くしかない?
小さかったので必死で歩いていたのでしょう。
親が後ろを振り向くと私が居ないのであわてて探したところ、泥だらけ(もしくは灰だらけ)になって土手の下に落ちていたそうです。
私が大きくなったころ、笑い話としてよく話していましたね。
経済とは経済警察。
当時、食料は配給制度だったので、闇屋や買い出しの取締をしていたようです。
当時、食料は配給制度だったので、闇屋や買い出しの取締をしていたようです。
捕まれば元も子もないですね…
戦中・戦後にかけて、我が家は次々と家族が亡くなり、母子3人の家庭になってしまいました。
周りの人が、「次はこの子だね」と私の事を云ってたとか・・・
それでも生きてこれたのは、買い出しのおかげだったのでしょうか…
コメント
コメントを投稿