母の九州入り

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明治三十九年 單身赴任の父のを追って 母は九州入り

その頃の旅は子供連れには大変だったらしい
又 新住所の八幡は大阪とは衣食住とも大違い

まづ転校した子の上草履が非難される
登校もはだしの多い頃なので きれいな上草履なんかおどろきだったらしい
衣類も 母の茶羽織を炭鉱婦の丈けの短い着類のようといはれたらしい
母にしてみたら京都の御りょんさんみたいと云はれたいらしかったのに 天と地程の違う比喩にとまどうばかり

お正月がきて餅も搗けない
官舎に住んで畠も出来ない
燃料も木炭で煮炊きしていたのに ガラだの何だのと手におえない
外国に行ったみたいに言葉もすらすら通じない

思っても不便だったろうと察しられる


《凡人の雑感》

「單身赴任の父」というのは八幡製鐵所が創業した明治34年前後に八幡へ来ています。

亡母の母が当時の大阪市から八幡に来たという明治39年には、2男3女の子供がいました。
当時は国鉄はすでにあったようですが、子連れの旅はやっぱり大変だったのですかね。

そして大阪の人からは、猿や猪と一緒に生活していると云われた八幡に来て
 大藏の官舎で生活していました。
こちらの👉「父母の思い出」には
「福岡県くんだりまで来てしまった淋しさを 夫婦でまぎらわせていたみたい」
とあります。
ず~っと淋しかったのでしょう。

亡くなるまでずっと亡母と生活していたので、しょっちゅう大阪の話を聞いていたみたいです。
それで八幡生れ八幡育ちの亡母も
 大坂の生活習慣や芸能について、詳しくなったようですネ。

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