戦時中、特志看護婦として志願した姉

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戦時中 特志看護婦として志願した姉の話
体温計は一人一人計るものと思っていたら ベッドに備え付けの体温計で 号令一下 始めェ 終りッ と一室何十人の傷病兵がやるので驚いた由
又 休日にはお琴の合奏でも 陸軍病院に琴を持参したのは大ぜいの赤十字、特志看護婦中姉一人だったそうな
西部戦線異状なしのテレビを見て


《凡人の雑感》

亡母より13才上の私の伯母さんのことのようです。

2014年11月4日(2a-70-1)の投稿にあるように亡母の父母(辰次郎と辰)は三味線をひき、踊り、地唄が好き、歌舞伎や人形浄瑠璃 ctc.
知的で教養もあったと亡母は言ってます。

辰は子供たちにも芸や教養を身につけ、知的であるよう育てたようです。
だから八幡生れ八幡育ちの亡母でも気にしていました。

それが何の因果か八幡くんだりまで来てしまって…
(理由は八幡製鉄所に勤めるようになったからです)

しかし八幡でも大阪弁で通したようですね。

亡母の姉たちは知人から
「あんな猿と一緒に暮らすような八幡に行くなんて可哀相」と同情され、京都の画家が一時引取っていたと聞いています。
そんなこんなで家系には誇りを持ちプライドも高かったのではと想像します。
それで陸軍病院に勤務する様になった時にもお琴を持って行ったのでしょうね。

それにしても戦時中の陸軍病院の入院患者は大変ですね。
入院患者は傷病兵ということで、入院しても軍隊調!
そこで号令一下、患者自らの体温測定。

もちろん症状の軽い患者さんでしょうが
この雰囲気からは、他にもいろいろと自らしなければならない事がありそうにみえます。
今日は熱っぽいだのあちこち痛いなどと言って寝てられない様子
ゆっくりと療養出来たのでしょうか?

戦時中とはこんなもの…だったのでしょう。

ところで持って行ったお琴で演奏出来たのかな?
チョット気になりました。



右近伯母の事についてはあちこちに思い出が残されています👉

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