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合羽屋

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<4-4-3> <4-5-1> 城の馬場(バンバ)  (*1) で日和がようて  合羽屋が合羽干す  俄かに天狗風 (*2)  合羽や親父が 狼狽え騒いで 堀へはまった  揚げておくれんか 冷いわいな  大きにはばかりさん 雨季が近づいたので和傘屋が傘を干しているシーンがテレビにうつる (*1)馬場(ばんば):馬場(ばば)の撥音化。           乗馬の練習や、競馬をする平地。 (*2)天狗風:てんぐかぜ。       にわかに空中から吹きおろしてくる旋風。 《凡人の雑感》 唄?  それとも   劇のせりふ? 天狗風って今なら  つむじ風? 竜巻? それとも  ダウンバースト??? テレビを見ていて思い出したのでしょうが、  内容は何が何だか さ~っぱり理解できませんでした (・・?

男ってしょうがない野郎だ

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<4-4-2> 大正時代の有毛 (*1) はまだ村だった 八幡が工業都市として賑はってきたのでよい販賣先が出来たとばかり 朝の三時四時というのに野菜を積んで 帰りは肥料を集めて来るという日課 今日も予定通り皆揃(ソロ)って牛車をひいて提灯つけて出かけたのに 午後の日がかたむいたが一向に帰ってこない 夕飯の仕度も出来た 日が暮れたと嫁女は戸口を出たり入ったり 悪い予感に落付かない やっととぼとぼ重い足どりの一行の姿を村はずれまで出迎えて驚いた 死んだ牛を車にのせて葬列のような有様 口口に問いただせば答えはこうだ その朝の野菜が思いの外の高値に気をよくした男たち 唐田町 (*2) の女郎屋 (*3) で昼飯の相談一決 朝から妓を侍らせて好い機嫌 そろそろ帰ろうかと牛を繋いでいた市場の広場へ行って驚いた 腹のへった牛達 傍にあった大豆の袋を食い破って 食べたわ食べたわ 堅い大豆を存分に食べたので胃の中で膨張 苦しみもがいて死んだのもいた始末 市場の人の中に気が付いた人も居たが 牛が恐くて近寄れないという それから大豆代を弁償したり迷惑を詫びたりの大失敗の一日だったそうな 男ってしょうがない野郎だ (*1)有毛:現在の北九州市若松区有毛      大正時代は島郷村の一部だったようです。 (*2)「唐田町」のように見えますが、よくわかりません。 (*3)女郎屋:じょろうや。遊女をかかえておいて、客に遊興させることを業とする家 《凡人の雑感》 どこで聞いてきた話? そして  本当に有った話??? 当時は八幡製鉄所ができて急速に人口も増え、近隣の農家も景気が良くなったのでしょう。 そんな様子を皮肉っての話なのかも知れません。 これは大失態と云うべきものでしょうが だれでも気のゆるみ、油断、不注意などでの失敗は色々とあります しかし、これは女郎屋で遊んだことが  『男ってしょうがない野郎だ!』 につながったのでしょう😉 でも これもnew日本昔話の候補に入れてもよさそうな話ですが・・・ これに似たような話がこちらにも👉「 河内の百姓 朝市の帰り 」

門司から黒崎まで電車が通ったとき

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<3b-41-4> 明治の終り頃 門司を起点に黒崎まで電車の軌道工事が始まったが (*1)  亡母はどうしてそんなものが要るだろう  何処のどなたが乗るのだろうと思ったそうだ 一里の道なんかへっちゃらだった時代 電車が通うようになったら一番に乗ったのは自分だったと笑っていた (*1)九州電気軌道:現在の西日本鉄道(西鉄)の直接の前身にあたる   1911年(明治44年)6月5日 東本町2丁目(門司市) - 大蔵川(のちの大蔵、八幡市)間(18.1Km)開業。   1911年(明治44年)7月15日 大蔵川 - 黒崎駅前(八幡市)間開業。 (Wikipediaより一部抜粋) 《凡人の雑感》 北九州の路面電車は残念ながら2000年にはすべて廃止されました。 子供の頃は電車の運転手さんはあこがれの職業。 電車に乗ると運転席のすぐ後ろに行こうと必死でした。 戸畑の三六から小倉の大門までは専用軌道のため、スピードを上げます。 このとき電車は前後逆方向に、左右に大きく振れながら走り、 電車が線路から飛び出すのではないかと思えるほどのスリルを感じていました。 こんな走行中にも吊皮を持たずに仁王立ちで立って自慢そうにしている大人もいました。私も大きくなって真似をした事がありますが~ ブレーキをかけられると前に走っていったり、よその人にぶつかって謝ったり…😅 九州電気軌道は略して『九軌』と言ってたそうです。 後に亡母も勤務したようです。 下のような絵葉書も保存していました。 「開業一周年記念(明治四十五年六月)」の絵葉書で『砂津車庫』となっています。 亡母の母もこのような電車に乗ったのでしょうね

戦時中、特志看護婦として志願した姉

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<3B-40-4> 戦時中 特志看護婦として志願した姉の話 体温計は一人一人計るものと思っていたら ベッドに備え付けの体温計で 号令一下 始めェ 終りッ と一室何十人の傷病兵がやるので驚いた由 又 休日にはお琴の合奏でも 陸軍病院に琴を持参したのは大ぜいの赤十字、特志看護婦中姉一人だったそうな 西部戦線異状なしのテレビを見て 《凡人の雑感》 亡母より13才上の私の伯母さんのことのようです。 2014年11月4日(2a-70-1)の投稿にあるように亡母の父母(辰次郎と辰)は三味線をひき、踊り、地唄が好き、歌舞伎や人形浄瑠璃 ctc. 知的で教養もあったと亡母は言ってます。 辰は子供たちにも芸や教養を身につけ、知的であるよう育てたようです。 だから八幡生れ八幡育ちの亡母でも気にしていました。 それが何の因果か八幡くんだりまで来てしまって… (理由は八幡製鉄所に勤めるようになったからです) しかし八幡でも大阪弁で通したようですね。 亡母の姉たちは知人から 「あんな猿と一緒に暮らすような八幡に行くなんて可哀相」と同情され、京都の画家が一時引取っていたと聞いています。 そんなこんなで家系には誇りを持ちプライドも高かったのではと想像します。 それで陸軍病院に勤務する様になった時にもお琴を持って行ったのでしょうね。 それにしても戦時中の陸軍病院の入院患者は大変ですね。 入院患者は傷病兵ということで、入院しても軍隊調! そこで号令一下、患者自らの体温測定。 もちろん症状の軽い患者さんでしょうが この雰囲気からは、他にもいろいろと自らしなければならない事がありそうにみえます。 今日は熱っぽいだのあちこち痛いなどと言って寝てられない様子 ゆっくりと療養出来たのでしょうか? 戦時中とはこんなもの…だったのでしょう。 ところで持って行ったお琴で演奏出来たのかな? チョット気になりました。 右近伯母の事についてはあちこちに思い出が残されています👉

水洗便所の排水先

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<3b-36-4>   村の中心を2m巾位の川が流れ 花崗岩の橋が八ッ橋式 (*1) にかけられ 橋の傍に大根だの牛蒡だの村の生産品を洗う為の洗場と 少し下った所に洗濯場がしつらへられてある平和な村のたたずまい  が何とも水草の茂りようが凄まじい 聞けば川上の小学校から水洗便所の排水を流すようになってからだという 井戸に電気ポンプも取りつけたしで今では川で物を洗う人はないそうな (*1)八つ橋:小川などに巾の狭い橋板を数枚、折れ折れに継ぎつづけ架けた橋 《凡人の雑感》 またまた下の話です。 一つ思い出すと関連して次々に思い出すようですね それにしても汚水をそのまま流していたのでしょうか? そんなことはないですよね、 処理済みの水を川に排水していたのでしょう。 私もこの話から思い出した話を一つ紹介します('◇')ゞ 会社勤めの昭和60年頃、職場のグループで山口県の川にハエ釣りに行った時のことです。 釣りに詳しい人の案内で、とある川に到着し川原に下って魚を釣る人、釣った魚を料理をする人とそれぞれ分れました。 私は釣の経験はほとんどないので飲み食い専門で参加していました。 釣れた魚を捌き、また小さな魚はそのまま丸っと油でから揚げ。 「やっぱ新鮮な魚は揚げてもうまいバイ」 とお酒に絶好のおつまみとなりました。 食後は川原に坐り、川の流れなどを見乍らの~んびりとしていました。 ふと少し離れた対岸の崖を見ると、年配の女性が何やら重たそうに容器を持って下ってきます。 何??? 水辺まで来るとその容器らしきものを川の水で洗い始めました。 あんな風に外して持ち運び出来るとは知りませんでしたが なんとそれは汲み取り式便所の磁器製便器です(*_*) 手慣れた様子だったのでだれかが 「おい、あの婆ちゃん何時もこの川であれを洗ろうとるんバイ」 ・・・すぐに丸ごと食べた魚のことを思い出しました・・・ とはいえ、魚はすでに腹の中。 その後特にお腹に関する問題は何も発生せず無事帰宅しました。 めでたしめでたし? この種の話は他にもいろいろありますが… でもこの辺でもうやめます _(_^_)_

船で鯉料理を食べたら・・・

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<3b-36-2> 折角香港に来たんだから船の支那料理喰べなきゃと行ってみたら舳先で鯉を釣っている 泳いでいる奴を料理してくれると大いにハッスルして喰べ満腹して  さて便意を催してきたので厠に入ったら 落ち行く先は水の中 舟の中だもんとふと見るとパクッとくいついたのは鯉 とたんに胃のあたりがグッとこみ上げてきたという 《凡人の雑感》 誰かから聞いた話でしょうが また下の話ですね😅 でも昭和の頃には日本でも当たり前の話で・・・ 私の子供の頃は 戸畑の街の中でも汲み取り式の便所でした。 バキュームカーのまだ無い頃は、天秤でトラックのタンクに担ぎ上げ、 そのトラックの 荷 は新川の河口で船に移し替え、洞海湾の外の海に捨てていたようです。 だからそこらあたりで釣った魚を「クソ喰い魚」な~んて云ってる人もいました。 ゜○。    ゜ >゜))))彡  <*)) >=<  <+ ))><< 失礼しました <(_ _)>

久邇宮良子女王来幡時のうわさ話が賑やかに

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<3b-34-5> 同じく天皇日常 (*1) を読んで 久邇宮良子女王 (*2) として最後の墓参に佐賀や鹿児島へ御旅行の途次 八幡にもお立寄りになった 処女会員として八幡駅のホームに並んだが折よく私のまん前は菊の御紋の良子女王の御席 老人席は筵を敷いた後側に坐らされたので列車は高すぎるし 少し前に一雨さっときたので雨をよける傘もなく哀れなお出迎えだった さて八幡製鉄にもお立寄り本事務所でご少憩の御 予 定とのことで万一の用意に便所をしつらえていたらお使いのなったらしい  と聞いた男が使用後の便所をのぞき見に行って守衛に見つかり警察に捕まった とか  又抽出し式になっていてモミガラが敷きつめられてあったとか 見てきたような話が流れた 又見に行った男の細君が妊娠中でショックで流産したとか 話は中々賑やかだった (*1):天皇日常:「日本人よ!」(伊丹十三選集 第一巻)岩波文庫にあるようです。 (*2)Wikipediaでは以下の様に説明しています。 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。 名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。 久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩主公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)。 祖父の朝彦親王は男子9人を儲けており、東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。 また、五女・島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。 《凡人の雑感》 話は少しわかりにくいですが、大正12年頃の話でしょう。 亡母はその生きた時代のためか、やはり皇室はあこがれ敬っていました。 香淳皇后の「錦芳集」もまだ本棚に残っています。 絵画は好きでしたが、昭和の時代に皇后陛下の画集ということで買ったものでしょう。 でもここで出て来る話題は ・・・ (-.-) どーも、下ネタ好きな一般庶民が集まるとこんな話題になるのですかね。