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B29を見て驚く

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<4-98-4> 撃墜されたB29が公会堂の前庭にさらされていると市報で知り見に行って驚いた プロペラの エンジンの ベアリングの大きさ  それが二段一組で四カ所のプロペラ  これは圧倒された 浅はかな考へだった  敵いっこないと思った

空襲にも慣れた?

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<4-98-3> 薬莢がカラカラと音を立てて屋上をころがると拾いに飛び出す男の子 電柱を楯に飛行機の通路の目測し 女だてらに上空は免れたと嬉ぶし あの音は蚊トンボだ あの音はB29だと聞きわけたもの

こんな戦争になるとは

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<4-98-2> 日清 日露 一次大戦は万歳 万歳で兵士を送り出し 万歳 万歳で迎えて終った 戦争とはこんなものと二次大戦開始を思っていたら 敵機が頭上を飛び交い 戦々恐々 夜もおちおち眠れない サイレンに怯え 爆撃におののき 夕方皆で食卓をかこんで無事を確める 朝は勤めに学校に行くのを どうぞ無事に帰ってと 一日一日の命を預って生きた こんな筈ではなかったのにと思った時はもうおそい 《巷の凡人雑感》 もちろん 日清戦争は明治27年-明治28年、日露戦争は明治37年-明治38年で 亡母が直接経験したわけではありません。 でも両親からは何度も話を聞いてたようです。 第一次世界大戦への日本の参戦が大正3年、そして終戦が大正7年。 この頃には10歳を過ぎています。 その後結婚し、長女(私の姉)を出産した昭和12年頃には支那事変から太平洋戦争へとまっしぐらです。 最初の頃はまだまだ 万歳!万歳!万々歳!だったのでしょうね。  でも・・・  やがて・・・

江戸から東京へ

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<4-79-6_> 六十年近く昔になるであろうか 「江戸から東京へ」という本を読んだ事がある  幕政時代から明治の文明開化期へかけての推移を女の目で書いている  その中に買物控えは筆者の 筆に書き止めたのだったから 面白く 後に私も出納簿をつける原因ともなった  又 亡母が  「お台場(東京の次に神戸に作られた砲台場)の石はこび むこうで飯 (まま) 食うて二十三文」 とか 「芋々々々芋やさん お芋は一貫なんぼぢゃえ 二十四孝でございます 十六羅漢にまけしゃんせ アカベ」 なんて教えてくれたりで楽しく学んだもの 今日 消費センターからパンフレットを見たので 《巷の凡人の雑感》 六十年程前(大正後期)の『江戸から東京へ』は誰が書いた本なのかわかりません。 『お台場の石運び』は2014年8月27日の「( お台場の石運び )」にも書かれています。 土方仕事が食事付きで23文 芋の一貫(3.75Kg)が24文 それを16文に負けろと云ってるのかな (?_?) で、これらから 昔の貨幣価値が学べるといってるようですが… (p_-)

求菩提で即身成仏の行に入った人

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<4-78-5> 昔の武士には切腹という刑執行の方法があったそうなが 介錯する後見がいたという 乃木将軍夫婦だけは おのおのひとりで死んだという 旅順開城の唄はよくお手玉繰りながら唄ったあの中に  死所を得たるを嬉べりの句がある けふ四日 求菩提山で即身成仏の「行」にはいった人がある 《巷の凡人の雑感》 歌は『水師営の会見』ですね。 歌詞の6番に 『二人の我が子それぞれに    死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目』と 大将答力あり とあります 即身成仏の話は 求菩提山 龍王院の住職(大行満) 山田龍真が 昭和57年4月に求菩提山7合目 七日間即身成仏行(土中行)を行った時の事の様です。 これは悟りを開いて仏になることで 即身仏(ミイラ)とは異なるそうです。 当時、私も「即身成仏=ミイラ」になろうとしていたと勘違いしていました。 亡母も同じ心配をしていたのではないでしょうか? そんなことから乃木希典殉死(切腹)や 水師営の会見の歌の『死所を得たる…』が出て来たと思います。 大正時代のお手玉の唄は『水師営の会見』だったのですね。 私の子供の頃は別の唄でしたが、まだ戦争中の唄(みたいなもの)であそんでいたようです。 写真は1965年頃下関の乃木神社で撮ったものです

漢口で終戦を迎えた直太朗さん

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<4-77-4> G. 直太朗さんは 漢口で終戦そうな 上海目指して旅立つ日 支那人が何人もやってきて 干し飯だの干し果物だのを持ってきてくれ  どこそこには誰々が居るから頼れと言ってくれ うれしかったそうな 人柄だな 《凡人の雑感》 漢口から上海まではかなりの距離があるようです。 引揚者の皆さんは大変苦労して本土に戻ったようです。 このかたは無事に戻られたので、こんな話が聞けたのでしょう。

母と大宰府に行き玄昉の墓を見つけた

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<4-76-2> 若い頃 母に大宰府を見せたいと天満宮 都府楼 観世音寺と回り歩いた折 玄昉の墓を見付けた 玄昉とは何をした人だろう これを知りたいと尋ねたが誰も知らない わづかに岩波から発行された本があったが廃刊になったと知る その後まつかぜ荘で松本清張の書いたものを読んだ丈け 磐木(磐井)の乱は古事記のどこいらだったかと 中程から読みだし最後の頁にたった一行出ていた あの本もいつ失くしたのかな 《凡人の雑感》 玄昉の墓は 「大宰府マップ(大宰府観光協会)」によれば以下の通りです。 『僧正玄昉の墓』は 奈良時代、遣唐船で中国に渡った有名な僧の墓 観世音寺境内の北西には、僧玄昉(げんぼう)の墓と伝えられている宝篋印塔がある。 玄昉は奈良時代の僧、阿倍仲麻呂、吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ、紫袈裟を許された。 帰国後、奈良の宮廷で権力を振るったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。 政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられている。 それから 松本清張『眩人』(1980年、中央公論社)は  玄昉をモデルにした歴史小説だそうです。 それで 当時の玄昉の墓はこんな感じだったようですね  これは当時の『大宰府地方名所名刹共同編輯發行』の『大宰府まうで』からのものです。 また、古事記で磐井の乱についての記述は継体天皇の所の最後の個所に、確かに有りましたが これを見つけるのは結構な努力が入りましたよ~ 工業高校出身の私としては全く解読できない文ですね。 でも、これを機会に古事記も読んでみたいと思ってます。 ところで 玄昉と磐井の乱、どう結びつくのかはわかりませんでした