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舟山に登る

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<1b-35-4> 「舟山に登る」とは田子の浦にうつる富士の山陰に 舟を漕ぎよせるのを言うそうですが ほんとに舟が山に登るのを見た母はびっくり 幾回も大蔵川の大岩でダイナマイト爆発の稽古をして  官舎の屋根瓦を割ったり  赤旗を立てゝ通行を遮断したりした後 河内ダムが出来上がり  満水したので警備や救助の為の舟がトラックに積まれて登ってゆく 「 世の中変わった 」 永い事母の口癖だった 《わたしのメモ》 北九州市八幡東区にある河内ダムは八幡製鉄所(現新日鉄住金)のダムで1919年(大正8年)に着工、1927年(昭和2年)に完工しています。 製鉄所の大蔵の官舎に住んでいたので、工事の様子をよく見ていたのでしょう。 ダムの下流は大蔵を通りますが、板櫃川(いたびつがわ)となっています。 しかし別名「大蔵川」とも言うようです。 「舟山に登る」は 一般的な故事諺の「船頭多くして船山に登る」と思いますが ここでは違うようです。 それにしても当時の大工事だった様子がわかります。 下の写真は1971年8月頃の河内ダム。 石造りのダムが綺麗です。

洞海湾一周

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<1b-34-4> 若松は島郷と言われてもわからなかったが 一周して初めて田圃の中の小川と思ったのに 干満があり 船が帆かけて航くので理解出来た そう 陸続きでなくて島郷だった 《凡人メモ》 昭和40年年代(六十歳代)の頃だと思います。 ワンダーフォーゲルに参加して若い人たちに交じり「戸畑-若松-脇ノ浦-脇田-岩屋-あま住-浅川-折屋」など約40キロ程を歩いた時のことのようです。 これが自慢で、島郷の話と共に何度も聞かされました。(^^ゞ 他に島郷の提灯山の話もよくしていました。 夜の田圃の水に映ってとても綺麗だったとの事。 小石の提灯山笠 については戸畑の提灯山と同じ姿のようですが、島郷の山笠はどんな姿だったのでしょう?

直江山城守の出世

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<1b-34-3> 一城の主は何万石と呼ばれる者から 下は何人扶持 (*1) と云はれるのは 食禄 (*2) といい徳川時代の経済改革 直江山城守が武功によって侍分から一城の主に出世したら 妻がびっくり この後どうして沢山の米を精白しようといったそうな (*1)扶持(ふち):棒禄を給して、家臣としておくこと (*2)食禄:知行、扶持 《凡人メモ》 *昔の笑い話ですね😁

お台場の石運び

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<1b-34-2> 「お台場の石運び むこうで飯(ママ)食(ク)うて二十三文」 これは維新の少し前 東京湾品川沖にお台場建設に続いて神戸にもお台場を作ることになり 全国から人夫が集められた時 仕事唄として歌われたそうな 亡母が梅川忠兵 (*1) の使い果 し た(?) 四五十両や 芋一貫目二十四幸(文)等と共に歌はれた時代の経済を知る参考になるからと話してくれました (*1)梅川忠兵: 👉 梅川忠兵衛 《メモ》 私にはさっぱり『 この時代の経済を知る参考 』にはなりませんでした(^^ゞ 神戸市兵庫区のページの『和田岬砲台』には   元治元年(1864年)大阪湾岸防衛のため、勝海舟の設計で完成したもので国の史跡に指定されている。 中央に石堡塔という丸い砲台があり、直径 12.12メートル、高さ10.60メートル、砲門11カ所となっていた。  当時は「お台場」といわれて、人々に注目されていた。  大砲はすえられることなく終わった。 と紹介されています。このことみたいですね。 「梅川忠兵衛」を題材とした人形浄瑠璃の演目『冥途の飛脚』(近松門左衛門作)のことも話題にはいっているようですが・・・  私にはよくわかりません。

月日の経つのは早いもの

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<1b-33-2> 「歯のないお母さんに食べさせるんだから硬い沢庵丁戴」  と云って店頭で「この親不孝者」 と叱られたのはついこの間の様な だって 硬くないと卸金にかからないので仕方がない 馬鈴薯も卸して団子に丸めてすまし汁に浮ばせると又変わった料理になるし 蓮根も牛蒡もこうして他家にはないものを食べさせました そしてお金がもったいないと云う母に 三日しきゃ食べなかったとしても噛んで食べるように勧めて 義歯をいれさせたのは昨日の事の様です 七十六才で死んだ母の年にもう手がとどく程に私も老いた 月日の経つのは早いもの 《雑感》 これは昭和54年春の頃書いたものだと思います。 まだ71歳だったのに・・・ この当時は病気で体力が衰え、体も少し不自由になり始めていました。 ユーモアを交えて書いているものの、少し弱気になっている様子。 私も歳をとって同じような気持ちに向かっているような気がします😞

お話の小父さん巌谷小波先生

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<1b-32-3> 北九州市八幡区(以前の八幡市)の大蔵電停前に日鉄の養成所 (*1) という建物がある 此処に大正六年か七年頃 巖谷小波 (*2) 先生の講演会があって その頃少女の友の愛読者だった私は 首を長くしてその日を待っていた ところが生憎四五日前から体の調子が狂ってしまい 医師の往診を求める羽目になって当日になった そこで一計を案じて 体具合がよいので通院して来る と嘘を云い医院の前を素通して会場にむかった 母は帰りがおそいと医院に尋ね 来ていない事を知ると心当たりを探し歩いた 大騒ぎになっているとも知らず してやったりと得意満面で帰ったのに一度でペチャンコ どんな話をきいたのか肝腎な事は忘れて 大目玉食ったのだけはっきり憶えている テレビ放送で お話の小父さん巌谷小波先生を見て (*1)日鉄の養成所:昭和30年代には八幡製鉄所の大蔵教習所がありました。         現在はマンションなどが建っているようです。 (*2)巖谷小波:いわや さざなみ         1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9 月5日)は、        明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人。        (Wikipedia 2020/01/03) 《メモ》 「少女の友」と巖谷小波の接点はよくわかりません もしかして「少女世界」かな?

入院中の病室の窓から

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<1b-32-1_2> ねえねえ あの向う岸の男性 もう長い事川の流れをしゃがみ込んで見てるのよ 身投げするには川は浅いし 上水道も断水する程水涸れの年だけどあゝして長い事居ると気になるのよ 人通りの少ない川端で何の為にあゝしているのかな 気にかかる人だな あゝ彼女と待合せていたのね 病室の窓外も退屈しないものね と隣のベッドより声あり 国道三号線から町道に曲った所の淋しい場所に 工事会社の事ム所があるのでトラック等の駐車場とされる空き地がアッケラカンと広がっている 朝は事ム所も多忙だが 私達こちらの川岸の病院も 検温だ 朝食だ 点滴だと窓外を見るひまはない 夕方 見舞い客も来ないし 退屈になった頃 工事々務所に人が集まり始め トラックと崖の間の狭い空地に男が五六人並んで立つのを不思議に思って目をこらして見つめたら アッ 病院の窓からま正面に 立ちション 川に向かって 《メモ》 昭和53年(福岡渇水の年)のころの入院中の病院の窓からの眺めです。 病院の前を流れる川、とても入水自殺できるような川ではありません😜 そして 昔はよく見ていた「立ちション」も最近はさすがに見かけなくなりました。 ・・・と思ったら 私も数日前、団地の公園の隅でオジサンの立ちションを始めました。 私は犬の散歩中なので気づかないふりをして通り過ぎようとしたのですが オジサンあわてて~  歩き始めたようです。 『大丈夫だったのかな ズ・ボ・ン』