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小学校の担任の先生

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<4-52-1> 入江スガノ先生には小1,2,3年の3年間お世話になった やさしいとても好きな先生が病気で退職されるときき 電車で先生のお宅まで見舞いに行ったらとても嬉んでくださって涙を流して下さった よくも大胆にあんな遠くまで行ったもの <4-52-2> 小4の担任は神代先生 4月の授業開始の日 開口一番「4年生にもなって5年生の本が読めないのか」と飛上る程の大きな声で叱られた 5年生が4年生の本が読めないなら叱られても当り前だが キョトンとしていた それから前日に家庭でよーく読んでおいて学校では不審な所を聞くことした 老令の為 男子中学(今の高校)をやめて小学校教師となった一風変った方だった とてもいい先生だった 《凡人の雑感》 電車でお見舞いって  小学生がどこまで見舞いに行ったのですかね。 子供の頃から実行力があったようです。 それにしても小学校の事をよく憶えています。 私が憶えているのは 小学校に入学した時は女の先生で大谷先生。 「やさしい先生」だったと記憶しています。 何しろ入学時には泣きべそ小僧だった私には、天使のような先生だったと思っています。 亡母もこの先生の事は、ずっと「良い先生」だったと云ってました。 5・6年の担任は男の先生で相原先生。 大変おせわになった先生です。 亡母にもこの先生はやっぱり「よい先生」だったようです。 この先生が園芸部の先生だったので私も所属していました。 また夏休みにはクラスで希望する5・6人ほどを、あがの峡や千石峡、中学になってからも耶馬渓などにキャンプに連れて行ってもらってました。 その時の体験から、その後キャンプや山登りが好きになり、歳をとった今でも近くの山を彷徨しています。 ところで 二年生から四年生までの記憶がほとんどないのは…ボーッとした性格だったからでしょうか? それともそろそろ私にも老人特有の症状が………(>_<) さらに  その間の写真さえも残っていません。 そうです、そうです  写真が無いから記憶を呼び戻せないのかも知れませんね。  目出度し めでたし (^^ゞ

虱退治

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<4-50-2> 終戦後の虱 (しらみ) 騒動はまだおぼえている人も多いだろう  頭髪にDDTをま白くふりかけられて学校から帰ってくる 戦争中は千人針 (*1) の腹まきが虱の温床だった 駆除法はセンプリの溶液を頭にも下着にも浸すこと  そうすると苦いのに辟易してよってこない 今年は学童に虱が流行しているそうな (*1)千人針:せんにんばり。       一片の布帛(ふはく)に千人の女が赤糸で一針ずつ縫って       千個の縫玉を作り、       出征将兵の武運長久・安泰を祈願して贈ったもの。 《巷の凡人の雑感》 昭和56年頃ですか たしかに一時期、そんなニュースを見聞きした記憶があります。 でも いまでもシラミ退治方法がネットに出ていますよね。 戦後は衛生状態が悪くノミやシラミは当り前のようにそこいら中にいました。 (寝床に入ってからノミがごそごそと体を這っているのに気がつくと、寝てるどころではなかったですよ) そして戦時中の千人針 ノミやシラミにとっては絶好の隠れ場所だったとは……… 云われてみれば納得です。 私が小学生の頃、 年に一度くらいの頻度で女生徒だけ学校でDDTをかけられていました。 その日の給食当番は男子だけが担当。 彼女達は真っ白い頭で下校していました。 DDTは現在では禁止農薬となっていると聞きます。 とんでもない駆除方法だったのですかね。 現在ではDDTもセンブリも使わず、別の方法で退治しているようですね。 ※ この話は2a-62-4にも出てますね。

母の九州入り

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<4-46-5> 明治三十九年 單身赴任の父の 跡 を追って 母は九州入り その頃の旅は子供連れには大変だったらしい 又 新住所の八幡は大阪とは衣食住とも大違い まづ転校した子の上草履が非難される 登校もはだしの多い頃なので きれいな上草履なんかおどろきだったらしい 衣類も 母の茶羽織を炭鉱婦の丈けの短い着類のようといはれたらしい 母にしてみたら京都の御りょんさんみたいと云はれたいらしかったのに 天と地程の違う比喩にとまどうばかり お正月がきて餅も搗けない 官舎に住んで畠も出来ない 燃料も木炭で煮炊きしていたのに ガラだの何だのと手におえない 外国に行ったみたいに言葉もすらすら通じない 思っても不便だったろうと察しられる 《凡人の雑感》 「單身赴任の父」というのは八幡製鐵所が創業した明治34年前後に八幡へ来ています。 亡母の母が当時の大阪市から八幡に来たという明治39年には、2男3女の子供がいました。 当時は国鉄はすでにあったようですが、子連れの旅はやっぱり大変だったのですかね。 そして大阪の人からは、猿や猪と一緒に生活していると云われた八幡に来て  大藏の官舎で生活していました。 こちらの👉「 父母の思い出 」には 「福岡県くんだりまで来てしまった淋しさを 夫婦でまぎらわせていたみたい」 とあります。 ず~っと淋しかったのでしょう。 亡くなるまでずっと亡母と生活していたので、しょっちゅう大阪の話を聞いていたみたいです。 それで八幡生れ八幡育ちの亡母も  大坂の生活習慣や芸能について、詳しくなったようですネ。

夜の電報配達

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<4-41-4> 明治初年 電報の制度が実施 (*1) された頃  「電報、電報」と夜の表戸をはげしくたたく人声に 疑心もなく開くと やにわに屈強の男が五人 どかどかと玄関の疊に白刃を突き立てたので母の叔母はあまりのショックで失神 そのまま発狂して明治六年ごろ死んだそうな 罪な強盗 大坂のメリヤス火事の夜は通夜だったそうで 死骸を納棺するひまがなく  長持に入れて一夜 家具共々安全な場所に運んでおいたら  長持が行方不明になり 八方探したら  蓋を開けたままうちすてられてあったそうな 火事場泥棒のあはてぶりを空想して 母はよく笑っていたっけ 近頃 夜間の電報配達がサラ金に利用されるので 廃止になるとかテレビで云っていた (*1):明治2年 1869年 東京・横浜間で電報取り扱い開始    (NTT東日本>電報の歴史より) 《凡人のメモ》 この話は以前の記事にもあります👉「 明治の大坂の大火で… 」 明治6年頃の大阪の大火の記録を見付けることはできませんでした。 『メリヤス火事』というのは明治42年(1909年)7月31日発生とのこと。 一方、この話は明治6年ごろの話。 【追記】(2020年4月) 最近調べたところ 「『明治大正大阪市史』 第一巻 概説編 第十章(保健及災異)」の〔七、大火〕に 「…維新後の大火といえば慶應四年・明治六年(京橋通)…」 と出てくるので、この火事の事だと思われます。 「明治大正大阪市史」第一巻 (国立国会図書館ウエブサイトより) ということで、この時の火事はメリヤス火事ではなさそうです。 明治6年の火災の話とメリヤス火事の話が混同しているのかもしれません。

父ちゃんは箪笥も長持も皆呑んで死んだ

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<4-29-1> 父ちゃんは箪笥も長持も皆呑んで死んだの 子供達は父親の顔もおぼえていない と云ったら  そんなにお酒が好きだったのかときかれる 呑むのは酒ばかりぢゃあるまいし 薬だって呑むものよ 終いには鯉の生血をふるえふるえ絞って呑ませたのだった 命を助けたいばかりに 爆撃された八幡の街をバケツさげて鯉を求めて歩いて行けば 電車線路は目茶目茶 自動車も 馬車は馬もろとも焼け死んでいて 小伊藤山 (*1) まで来ると小伊藤山を掘り抜いた防空壕から死体が次々運び出されていて凄惨な光景 思い出しても背すじの寒くなるような中を歩いて行ったのだった (*1)小伊藤山の防空壕では昭和20年8月8日の八幡大空襲の際、      中で多くの犠牲者が出た所です。 《凡人の雑感》 父ちゃん(私の父)は製鉄所に勤めていましたが、病気で休むと亡母は八幡の本事務所に呼び出されたそうです。 そこには軍刀を持った憲兵が机に脚をのせて座り、その足の間から顔を出して--- 出勤させる様に云われたそうです。 病気だからと云っても聞き入れてくれなかったそうです。 結局、無理がたたったのでしょう。 終戦の翌年の昭和21年に、肺の病気で亡くなっています。 私が3才になる少し前、姉は8才でした。 この本事務所での体験はずっと腹に据えかねていて  その後何度も腹立たしそうに話していました。 「大の男の兵隊が、女相手に軍刀もって脅すような・・・威張り散らして・・・」 兵隊さんが軍刀を杖の様に持って椅子に座るのは、記念撮影のためだけではなかったのです。 こうして相手を威圧する道具としても使っていたようです。 でも、 相手が女でも? …この態度は… もっとも私の現役時代でも、仕事がうまくいかないとき 「死ぬ気で頑張れば不可能はない」 みたいなことを言う上司もいましたからね。 時代も変わり、プレッシャーを受け止めないようにする術を知ってましたので、ほぼ無事に勤め上げました。 でも、もし上司が軍刀を持っていれば・・・即座にひれ伏し従っていたでしょうね。 「 こんな時代に戻りませんように 」

押しくら饅頭

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<4-22-2> 押しくら饅頭 ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せ みんな押せ 押したら寒さが逃げてくぞ 寒さが逃げてって 体がぽかぽか 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したら弱虫泣きだすぞ 弱虫泣きだし 泣けべそとびだす 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したら饅頭つぶれるぞ 饅頭がつぶれて あんこが飛び出す 押しくらまんじゅう ギュウ ギュウ ギュウ やれ押せそら押せみんな押せ 押したらおにぎりつぶれるぞ おにぎりつぶれて梅ぼし飛び出す 《凡人の雑感》 子供の頃遊んでいた『おしくらまんじゅう』の歌ですね 当時の冬の暖房はこれしかなかった…ですね。 歌詞はネットで調べると いろいろあるようです 地方や時代で違っているのですかね。br> ネットで調べても此処に出てくる歌詞は見付けられませんでした。 この歌詞は亡母が記憶の中から書きだしたものか それともどこからか書き写したものかわかりません? (表現に少し方言が混じっているようなので実際に歌っていたものと判断しています) 次の歌詞が一般的の様です  おしくらまんじゅう 押されて泣くな、  あんまり押すと あんこが出るぞ  あんこが出たら つまんでなめろ 私の子供の頃(昭和20年代)はただただ 「押しくらまんじゅう!押しくらまんじゅう!」 と怒鳴っているだけだったような気がします。 『愛想もくそもない』ってとこですかね。 古い楽譜帖にはこんな歌もありました 👇 画像をクリックするとYouTubeへジャンプします

戦時中、伝令を仰せつかったが

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<4-20-2> 戦時中の婦人の生活 という放送があった あの頃 私は伝令を仰せつかり 赤ん坊だったK子を背に走りまわっていた 伝令は毒ガスの落ちた道もあるだろうと防毒面が支給されたが 背中の乳児は無防備のまま たまりかねて乳児用を請求したら乳児用は無いという 産めよ殖やせよはかけ声だけかと くやしかったな  《凡人の雑感》 この話、よほど悔しかったとみえて二度目です。 (2014年11月15日投稿の 「子供の誕生と戦争の進行」 にも出ています) 防毒面は結局は防火演習用だったみたいで、  その後の実際の空襲が始まると無用の長物だったとか。 バケツリレーなどの防火演習も絨毯爆撃の下では役立ちそうもありません。 戦時中は戦争に勝つためのスローガンが沢山あったようです。 戦後派の私も知ってるスローガンなどは 「欲しがりません勝つまでは」・・・勝つ保証があれば? 「ぜいたくは敵だ」・・・・・・我が家では今でもこの精神です 「進め一億火の玉だ」・・・・今の時代ではちょっとしんどいかな? 「月月火水木金金」・・・・私だって現役時代はこんな仕事ぶりが少しあったかも 「本土決戦」・・・・・・いやです! 「鬼畜米英」・・・・・せめて近隣諸国とは… etc. そうそう 近年の少子化問題で見つけたのは 「パパが産休、家族にサンキュウ」 「産めよ殖やせよ国のため」  みたいに指示・命令的ではないようです・・・ネッ!