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「宿なし団七時雨傘」の撥ね釣瓶から

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<2b-25-3> 「宿なし団七時雨傘」 (*1) で珍しく撥ね釣瓶 (*2) が映っていた 団七は職業は河童太郎(ガタロー)なのかな 昔八幡に大谷池があった頃 撥ね釣瓶で市営の散水車が水を汲んで馬でのんびり散水していた 又こんな話もある 撥ね釣瓶の石をくくりつけた方に脱いだ着物を掛けて水を汲んでいたので 臆病者が夜目に上り下りする浴衣を幽霊かと早合点して悲鳴をあげたそうな 明治初年まで道頓堀の向うは刑場だったらしく 船場の人は通らなかったらしいが 母は行った事があるらしく 尻たたきを見たとか 打首の血が塀の下から道まで流れていたとか話していた きっと維新で浪人した借家人からでも連れて行ってもらったものだろう (*1)やどなしだんしちしぐれのからかさ【宿無団七時雨傘】   歌舞伎狂言。世話物。3幕6場。通称《宿無団七》。   初世並木正三作。1768年(明和5)7月大坂竹田芝居初演。   コトバンクより (*2)撥釣瓶:柱の上に横木を渡し、その一端に石を、他端に釣瓶をとりつけて、   石の重みで釣瓶をはねあげ、水を汲むようにしたもの。 《凡人の雑感》 テレビ中継で歌舞伎を観て その中の撥ね釣瓶から色々な思い出が頭の中を駆け巡ったようですが 歌舞伎の話になると私にはさっぱり分かりません。 歌舞伎手帳(角川文庫)によれば団七茂兵衛は河太郎ではなさそうに思えますが、『宿なし』から河太郎につながったのかな? 私が子供の頃は釣瓶で水を汲む井戸を見ましたが、さすがに撥ね釣瓶は見たことはありません。 昔の刑場の話・・・ そんな光景、本当に見たのかな? 明治の初め頃の昔だからあったのかも (-_-;) 刑場の話はこちらにも>>>>>  「 借家住まいの紀州藩士は」 4-55-3(2015/9/2)

昭和の初めの別府の正月

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<3b-23-5> 昭和の初 め 頃の別府の正月は楽しかったな 三が日は 幔 幕張った大玄関から 豊後漫才 (*1) が次々に来て  又春駒 (*2) も来るし  映画館の楽士の一団が君が代を吹奏して来るし 千客万来と賑やか 年末にハトロン封筒百枚を二ッ切りにした手製のお年玉も残り少なく も少し作るか等相談する 小寒に入ると寒行の禅僧の寒念佛 (*3) が聞えて 冬の風物詩も色どりが変ってくる (*1)豊後万歳:国東半島が発祥だそうです (*2)春駒:はるごま。 年の始めに、馬の頭の作り物を持ち、戸ごとに歌ったり舞ったりした門付芸人。   またその歌。 (*3)寒念仏:かんねぶつ。 寒中30日の間、山野に出て声高く念仏を唱えること。      後には、寒夜に鉦をうちたたいて仏寺に詣で、      または有縁の家や付近の地を巡幸することとなった。 《雑記》 昭和初期の正月風景はまだまだ賑やかで楽しそうですね。 亡母の姉が別府にいたので、別府で正月を迎えた時の思い出でしょう。 私が子供の頃はここまで賑やかではなかったですが それでも正月は特別なものでした。 買物だ、おせち料理だ、掃除だ、障子の張替だ、餅つきだ~ やっと元日の朝を迎え 雑煮と重箱のおせち料理を楽しみ 家族でカルタ取り 日頃はお腹を空かせていても 正月だけはお餅とみかんは食べ放題! なにより食べることが幸せに感じた戦後の子供でした。

源兵エさんは丁稚泣かせ

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<3b-21-3> 源兵ヱさんという人は丁稚泣かせだったらしい 何か失敗しても店を開けている間は小言は云はない 夜 大戸をおろして煙草盆をさげて渡り廊下を奥に行く時 失敗のあった丁稚に 「おいなはれ」と呼び 奥の部屋に坐らされて  自分から反省の言葉を云はないと許してもらえなかったらしい 決して叱るでなし 済みませんでしたと謝っても駄目  しびれが切れても許してもらえないしで 「 おいなはれ 」を云われると背筋がゾーッとしたそうな 《凡人の雑感》 源兵ヱさんは番頭さんでしょうかね? で番頭さんということにして… この番頭さん、良い上司なのかそれとも悪い上司なのか? 私が若い頃の上司は叱るときは事務所に呼びつけ、そこで大声で叱っていました。😠 私も何度か経験あります。 その上司も(さらに上の)工場長から大きな大きな部屋中に響くような大声で叱られていました。 当時の職場の気風だったのでしょう。 職場の先輩などからは 「むかついても相手の顔を見るな。怒られるときは頭をしっかり下げとけ。そしたら怒鳴り声が頭の上を通過する。それで腹も立たん」 と教えられていました。😜 せっかくの説教もこれじゃ効果はなさそうでが、 その上司は大声を出すことによって何かを発散してたのでしょう。 そんな苦手な上司でしたが 職場が変った(そして時代も変わった)せいもあり、その後はこんな上司は見なくなりました。 今の私には上司はいませんが、強いてあげれば…👉👵

サーカス

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<3b-19-4_5> 有田洋行 (*1) というサーカスがあった 有田さんの親の家が 製鉄病院の坂を下った所にあって 梅雨明けの虫干しには虎の皮の敷物が 二階の手摺にずらりの幾枚もかけ並べてあった 団長は操姉と同い年とかで 八幡で興行する時立ち話していた事もある 日本で名の売れたサーカスだったらしい サーカスはあまり好きでなかった 「あんな危険な事をしなければ おまんまが喰べられないのか」 と子供らしくない言葉で批評していたので 大人から顰蹙 (*2) されていたらしい (*1)昭和三十八年に惜しまれながら解散したそうです。 (*2)顰蹙:ひんしゅく。(不快に思って)顔をしかめる事。まゆをしかめること。 《凡人の雑感》 大正末から昭和にかけての有田サーカス 日本のサーカスの草分け的な存在であったとか。 木下サーカスが私の子供の頃は有名だったような気がします。 それにしても 「あんな危険な事をしなければ おまんまが喰べられないのか」 は、確かに子供らしくないかも。 私が子供の頃の昭和20年代はあまり娯楽がなかったので、私の住んでいた戸畑の駅前でもサーカスが何度か来ていました 製鐵所の起業祭の頃になると八幡の大谷には、サーカスや見世物小屋が並び賑やかでした。 しかし、その中で  「親の因果が子に報い…」 と呼びこむ見世物小屋は好きではありませんでした。 だって本当だったら気味が悪いし、(-_-;) からくりがあるのであれば出したお金がばからしいし (~_~) その頃は何と人さらいもいて  さらわれた子は、こんな見世物小屋に売られるなんて話もあったし (;_:) あ~ 楽しむ余裕のない貧乏人だったからでしょうかね こんな事を思い出すのは  ('◇')ゞ

洞海湾クルージング

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<3b-16-3> 「焼玉エンジンの修理が済んだので試運転に行かないか」と声をかけて呉れたので之幸と船に乗り込む 牧山の見張所によった あれが出港 こちらが入港の報せ ここが若松若松板ガラス こちらが安川と 見るもの聞くものが目新しく 日華油脂の沖迄来たら水上警察の舟が追っかけて来て その舟足の早いこと 見る間につかまって帰れ帰れと帰された 昔の話 《凡人の雑感》 下の鳥瞰図は 「八幡市鳥瞰図 昭和八年 初三郎作」より戸畑付近を切り取ったものです。 牧山の見張所(信号所)も今とあまり変わらない姿で建っています。 ここに書かれているポンポン舟での洞海湾遊覧(?)も独身時代でこの頃だったのではないかと想像します。 鳥瞰図の一番手前に見える小さな島は葛島(かつらじま)のだと思います。 小学校の同級生ははこの島から通学していたと記憶していますが、  今ではこの島も埋め立てられ製鐵所の洞岡地区の一部になってしまっているようです。

若戸の渡しの清兵衛さん

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<3b-16-2> 若戸大橋 (*1) のまだ無い頃 中の島 (*2) に清兵ヱ (*3) さんと云う漕手が居た 若戸渡船 (*4) は市営なので 朝五時から夜十二時までの営業だったので  十二時過ぎから朝の始発まで転馬 (*5) で個人営業 深夜の帰宅の便利と人気があったらしいが いよいよ若戸大橋の工事が始まるというので中の島あった造舟工場が二島へ移転し  清兵ヱさんも家族と共に居なくなると聞いので  一度乗っておきたいと思い よちよち歩きの K 子の手を引いて乗りに行った 序に清兵節を聞かせてとたのんだが いい声だというのに恥かしがって歌ってもらえなかった (*1)若戸大橋:洞海湾に架かる若松と戸畑を結ぶ吊り橋。        昭和33年(1958年)着工-昭和37年(1962年)9月26日開通 (*2)中之島:洞海湾の湾口にあった小さな島で、       今の若戸大橋の橋脚辺りにになるそうです。       昭和14年(1939年)から始まった洞海湾改修工事で、       船舶の運航に邪魔な中島は削られ無くなったとか。 (*3)清兵衛:東畑史の本「流水」の中の「提灯山笠」にも清兵衛さんの名前が       出てていました。 (*4)若戸渡船:若松と戸畑を結ぶ渡船。現在も運行中です。 (*5)転馬:伝馬船のことだと思います 《凡人の雑感》 若戸大橋の工事は昭和33年に始まっているので関係ないですね。 洞海湾の改修工事が始まる前、昭和13年頃の話です。 (亡母の思い違いです。) わざわざ歌までリクエストするとは… 好奇心旺盛なところは、さすがです。 下の圖は「大11測」となっている地図の一部です。 たしかに洞海湾の入口を塞ぐように『中島』があります。 もともとは『かば島』と言っていたようで、 「明33測」と書かれた地図には『かば島』と表示されていました。

昔は変人も多かった

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<3b-15-6> 長靴はいつの頃から履いたのかな 昔 八幡に雨の日も晴れの日も長靴の好きな男がいた 維新の廃藩置県の時 兄は伯爵になったが 弟は部屋住み (*1) だったので平民に ついにその子は八幡で工員生活 この男 家具に目をみはる様な品があり 育ちはおっとり型なので 蟻が甘いものに寄る様に 鎧や刀は次々に他人でに渡っていった 亡父も鉄砲をゆずり受け 猿や山犬の出没するその頃の帆柱山によく登っていた 亡父は職人気質の最後の人と云はれてエピソードの多い人だったが その頃は長靴さんや花ちゃんやその他の変人が多かった 「をんな」を語るの放送を見て (*1)部屋住み:嫡男のまだ家督を相続しない間の身分。        また、次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者。曹司住。 《凡人の雑感》 亡父(私の祖父)は大坂でキセルの製造販売をしていたそうですが、製鐵所ができるときに八幡に来たと親戚から聞いています。 八幡でどんな仕事をしていたのかはわかりません。 残っている写真を見る限り、修繕工場(整備工場)で働いていたようにみえます。 偉い人もいるようですし、子供みたいな人(給仕?)も混ざっています。 どんな職場だったのでしょう。 また『亡父は職人気質でエピソードの多い人』 とありますが、聞いた記憶はありません。 少しでも聞いておけばと今になって思っています。 それにしても 何もない八幡の土地に各地から人が集まり、変人も多かったのでしょうか? それとも、その時代は奇人変人が多かった? 良くわかりません???